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本当に癒される京都のパワースポット研究⑲~都を護った北方の結界編その①~

 皆さん本当にご無沙汰しております。

『比叡山と京都時報』を始めて1年とちょっと、そろそろこのブログへのアクセス数も何とか1万回を数えようとしております。これもひとえに京都を愛する皆様のおかげと日々感謝しております。

会館からブログ用
比叡山頂から眺めた秋空の琵琶湖

 しかしながら最近はFacebookを始めとしたSNS等で、気軽に自分の研究成果を投稿できたり、また自論を展開できたりと、すっかり便利かつ簡素化してしまい、私自身もそのお手軽さからそちらにのめり込んでしまって長い間このブログもほったらかしにしておりました(すぐに「いいね」が付くと、結果がすぐに目に見えますし、評価がダイレクトに伝わって楽しいんですよ)。(;´∀`)

 何かと中途半端になってしまい、今後の方針を色々と思案をしましたが、SNS熱も落ち着いてくると物足りなくなってきて、やっぱりブログを介しながら思ったことや研究成果を写真を交えながらじっくりと発表していきたいと思うようになりました。今後も皆さんにはご迷惑をおかけしますが気軽にお付き合いください。


 さて、私は現在京都市内在住ですが、元々の出身は自己紹介欄にもある通り旧宇治郡字醍醐村となります。つまり京都出身を語りながらも、いわゆる「お土居」の内部の「洛」に住まう「生粋の京都人」とまではいかないんですね。
 20代の頃には市内中心部に何年か住まいましたが、よく居る若者の独り住まいでご近所付き合いもなく、その後は大津市や市内の山科区を転々としておりました。

 数年前、子供が大きくなったのを機会に、さすがに山科界隈の下町住まいでは教育に悪かろうと、市内の閑静な住宅街に越してきました。しかし、ほんの1年もしないうちに色々と不協和音が…。次第に自分が今まで培ってきた京都人の常識が覆ってきて、「俺ってほんまに京都出身なのかなぁ?」と思うようになってくる始末。

 まぁ早い話が、今住んでいるこの地域「地域ぐるみで住民がとにかく意地悪」なんですよ。

 「ほんの数㎞の距離でこんなに人間性が変わるのか」というレベルにさすがに戸惑いを隠せません。

 職場で京都市内出身の同僚や先後輩に相談してみたんですが、「まぁそれが京都人やで」とか、「ほんまの京都を知らんかっただけやで」と言われ、まったく話になりません。

 確かに私の生まれ育った地域は、市内でも有数の「低所得者」が多く暮らす地域で、京都府下以外からの住民も多く流れ込くるいわゆる下町というところですから、もちろん治安も悪く、私の少年の頃なんてもう真夏にもなれば、暴走族の鳴らすバイクの爆音とそれを追いかけるパトカーのけたたましいサイレンが毎夜鳴り響き、ともすれば暴走少年を追いかけまわして恫喝する本職の方々の叫び声を耳にしながら、阪神巨人戦のナイター中継に没頭しているのが日課でした。

 ちなみに私にはたくさんの幼馴染がいますが、親からもらった身体に落書きや改造をせず、今まで生活しているのが私を含め数人だけだという驚愕の真実を漏らしたならば、聞かれたみなさん「ドン引く」レベルの地域で育ったんですよ。

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京都最古の五重塔と云われる国宝醍醐寺五重塔
子供のころそんな大それた文化財とはつゆ知らず、よく遊びに来ました

 山科に居を構えてからも、安価な建売住宅の居並ぶ町だったせいか、隣近所さんはほとんど地方出身の方々でしたね。毎日家の前では子供たちが生きていることを謳歌するかのような大声で包まれ、夜半過ぎには子供を叱るお母さんの九州弁やどこの訛りかわからないような大声、夫婦げんかやそれを仲裁する声をおかずに夕食を食べたものです。

 少し表現が大袈裟過ぎるような感もありますが、まぁ醍醐山科なんて所は主にこんな感じで日常を営む地域なんですね。
 しかしながら、ご近所の皆さんの一体感や結びつきは強く、住民たちの日々「生きてる感」「情の深さ」は飛び抜けています。まさに血の通った交流ができる地域で、私は大好きでした。


 しかし子供の教育のためにやむなく今の町に引っ越したとはいえ、これ程とは…異常すぎます


 子供と同年代の児童数は山科と変わらないはずなのに、子供の笑い声や子供のもつ溢れんばかりの独特のエネルギーをちっとも感じない。引きこもりのオッサンやオバハンを抱えた爺さん婆さんたちが町中を占領し、少し子供が騒ぐと早速クレームをつけてくる。こんな状況では子供たちものびのびと育つ訳がないですよね。「これが日本の近い将来の縮図か」(T_T)と、迫りくる高齢化社会の現実に怯えざるをえない状況です。

 しかしながら私も伝統的醍醐人の血統を受け継ぐ人間ですから、もちろん成長段階で刷り込まれた「やられたらやり返す」をモットーに行動し、その暴走っぷりに、既にご近所で「鼻つまみもの」の称号を欲しいままにはしております。

 しかしそれだけでは何か物足りない。(`^´)

 かと言ってこのブログを使って不特定多数の方々にご近所の悪口を言い放つのも一人前のおっさんとして気が引けます。何より京都のことが好きでこのブログを観ていただいている方々に対して失礼ですからね。

 そんな毎日に、何かこう…だんだんとこの地域周辺には「悪しき気」が停滞しているのではないか?

 そういう「結界」がこの辺りに存在しているのでは無いか?

 と考えるようになってきたんですね。

 それなら…

 私も一応、自称「京都の結界研究の第一人者」と自負しているくらいですからね、いっそのこと「なぜこの地域の人たちは異常に意地悪なのか?」「なぜニート率が高いのか?」を学術的に検証してみようと思ったんです。


 かなり前置きが長くなりましたが、ここから本編が始まります。


 いつもの通りに、パソコンで地図を広げて何時間も見入っていると…


やっぱり… あ~やっぱりね!
と気づきました。

やっぱりこの地域には「結界」が張られていたんです。それも強烈なやつが。

 つまり結論から言うと、私が越してきたこの地域周辺は、京の都を分ける境界線にあたる訳なんです。

 天下統一を果たした豊臣秀吉が、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、「御土居」の築造により定めようとしたという話は有名ですが、その遥か昔、京都がまだ「山背の国」と呼ばれていたころの「三大大社の三角結界」を始め、平安時代に創られた「仏の三角結界」に代表されるように、既に京の都には宗教的な結界が線引きされていました。

 しかし、それだけに終わらず、時の権力者たちは実在した高名な呪術者を使いさらに強力な結界の構築を望みました。
 しかも北面を重点的にです。

 京都の伝説では「大江の鬼」「鞍馬の天狗」など、特に北方で魑魅魍魎が目覚ましく暗躍します。このことからも、北面からの「悪しき気」の侵入強力な結界で防ぐことが急務だったのではなかったのでしょうか?

 そのために引かれたのが下の図の「北方の結界のライン」です。

北方の結界

 見ていただけると一目瞭然ですね。

 この結界は、比叡山随一の霊力者とし名高く、日本全国で「元三大師(がんざんだいし)」として信仰されている「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」の墓所「元三大師御廟(みみょう)」に始まります。
 その後、全国の総天満宮社である北野天満宮天神様として祀られる「菅原道真」の生前の師として、また、その後,
昌泰の変怨念を以って日本史上有数の祟り神「太政威徳天」となった道真をその霊力で調伏せしめた、第13世天台座主尊意大僧正が、道真の霊を鎮めるために建立した八瀬天満宮を通ります。

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比叡の深谷にひっそりとたたずむ元三大師御廟の拝殿

 それのみならず、既に私のブログ本当に癒される京都のパワースポット研究⑬「金閣寺に隠された、京都No.1パワースポット」で紹介させていただいている日本最大の呪術者「浄蔵貴所の墓所」、皆さんもうお馴染みの同⑱「~安倍清明と平安京の結界~」において紹介した「安倍晴明の墓所」を経て、桂川に架かる渡月橋へと繋がっていきます。

 この渡月橋は、元々はすぐ近くに建つ真言宗のお寺「法輪寺」へと参拝するために懸けられた橋で、この橋をもってこれより以北を保津川、橋が架けられている付近を大堰川、そして以南を桂川と呼びます。
 私は昔からなぜ同じ流れの川が保津川から大堰川、そして桂川と名を変えていくのかがかねがね不思議だったのですが、この「北方の結界」を発見して納得がいきました。

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京の都を内と外に分ける境界線の役目を果たす渡月橋

 つまりこの渡月橋は、単に法輪寺への参拝の架け橋ではなく、京都の中と外を宗教的に分ける結界の橋だったんです。

 またこの結界線上には、京都市内のみならず全国的に有名な心霊スポットや、永きにわたり京の都の裏歴史を担ってきた地域、また、現在にも残る平成の世とは思えない景観が続く京都裏スポットに名を連ねる不法占拠地域等が存在します。

 はたして、この結界線上にこれらの地域が存在するのは偶然からなのか、これから時間をかけてゆっくり一つ一つを検証していきたいと思います。


 そんな訳で、まずは京の都北面を守護する「北方の結界」出発点である「元三大師御廟(がんざんだいしみみょう)」から紹介していきたいと思います。

御廟
拝殿の奥にある御廟

 この元三大師御廟は、比叡山北方「横川地域」に位置しています。かねてよりこのブログを読まれている方はもうご存知とは思いますが、一言に比叡山と申しましてもその境内は東京ドーム500個分と云われるほど広大な敷地面積を誇り、山内は主に「東塔」「西塔」「横川」の大きく3つの地域に分かれています。その中でも比叡山中で最も北に位置するのが「横川地域」で、第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれた地域と云われています。

 元三大師とは、第18代天台座主慈恵大師良源のことを指し、亡くなられた日が正月の三日だったため一般的には元三大師と呼ばれています。

元三大師
良源の御影

 良源は、935年に大規模な火災で灰燼に帰した延暦寺堂塔の再建に努め、比叡山の大伽藍の基礎を造ったと云われています。

 座主就任後には、山内の乱れた風紀を正そうと悪僧数千人のリストラを敢行したり、延暦寺最大にして最高の法儀「法華大会」(天台宗のお坊さんはこの法華大会の試験に合格しないと一人前とは認められません)の基礎をお造りになられたりと、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、様々な功績を遺されました。その数々の偉業から「延暦寺中興の祖」として尊ばれています。

 また、非常に霊験あらたかな僧侶としてもよく知られ、女性を近づけないように自らの身を鬼の姿に変えた伝説が残っていたりだとか、ある時は自らが鬼の姿となって疫病を引き起こす物の怪を追い払い、弟子にスケッチさせたその姿を魔除けの護符として人々に分け与えたそうです。

角大師
魔除けの札として有名な角大師護符

 祇園祭で有名な八坂神社が元々は天台寺院だったことはあまり知られていませんが、『今昔物語』には、当時藤原家の私寺である興福寺の支配下であった祇園感神院(明治以前の八坂神社の呼び名)を良源がその支配下に置くために尽力し、亡くなってからも霊となり興福寺の責任者である仲算と交渉を重ねたとのエピソードが残っています。

 その法力を以ってか、祇園社は延暦寺支配下に入ることが認められ、時代が明治に入るまで、その別当を時の天台座主が務めることとなりました。

 今では全国の寺社仏閣で普通に見られる「おみくじ」も、そもそもは良源がその霊力を以って始めたものがもととなっており、現在でも比叡山内横川の元三大師堂では、良源の御遺志を引き継いで3年間の看経地獄の行に挑んでいる「大師堂執事」によりおみくじが受け継がれています。

 元来比叡山は山学山修の地であった為、開山以来相当数の僧侶が常に何らかの書物に記録を取っておりました。僧侶たちが正確に記録をとっていたためか比叡山では怪しげな奇談や伝説が生まれにくく、良源のように数々の人間離れしたエピソードを持った人物は比叡山1200年の歴史の中で、そうは存在しません。
 そのため、比叡山輩出の僧侶では唯一「信仰の対象」として崇拝され、自らが住まいした定心房跡に建てられた元三大師堂を中心に全国各地で「元三大師信仰」ご本尊としてお祀りされています。

大師堂元三会ブログ
本年9月3日に執り行われた「元三大師御誕生会」で、大師の御生誕を祝う元三大師堂

 良源は亡くなる寸前に弟子を枕元に呼び寄せ、「私の亡骸は比叡山の鬼門の方角に捨て置き、決して掃除はするな。私は魔王となって未来永劫に比叡山を護ろう」と言い残しこの世を去りました。

 弟子たちは良源の言いつけ通りにご遺体を葬り石柱に笠の形をした石を乗せまるでエノキタケのような墓石のみを建てました。それ以来良源の墓所は御廟(みみょう)と呼ばれ、京の都の鬼門を護る比叡山のそのまた鬼門を護る聖地として比叡山全ての人々に畏れられる「魔所」となったそうです。今でも御廟は観光客も近寄らない「比叡山三大魔所」の一つに数えられ、山内にひっそりとたたずみ比叡山にもしものことがある時には、もの凄い轟音が山全体に鳴り響くと云われています。
 墓石
その神聖さと畏敬の念から訪れる人も疎らな御廟の墓石、大師の言いつけ通りほぼ自然に任せ捨て置かれている。

 ちなみに、岩崎陽子さんの『王都妖奇譚』というマンガでは、良源は主人公の安倍清明呪術を教える天台僧として登場します。もちろんそれを証明する根拠などなく、フィクションには間違いないのですが、良源と清明は9才良源が年上なだけなので、この時代に名を馳せた稀代の呪術師の二人が全く縁が無かったとも考えにくいのではないかとも思います。


 比叡山横川の元三大師堂並びに大師堂までの交通アクセスや拝観料、そしてドライブウェの料金等は、ブログのバックナンバーパワースポット研究⑧「仏の結界編」~日本一 比叡山延暦寺の完璧すぎる鬼門封じ~に詳しく紹介しております。参考にしていただければ幸甚です。
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プロフィール

やま法師

Author:やま法師
 生まれはおろか、戸籍を尋ねてみても、江戸時代の文久年間までは、とりあえず遡ることが確認できた京都(宇治郡・醍醐)人。当時の身分制度から考えるとそれ以前よりご先祖さまが、此の地に定住していたことは間違いない。
 
 生来よりのきかん坊で、自由奔放な青春を謳歌し、30代後半まで犯罪スレスレの生業で生計を立てるも、ある日奇瑞の仏縁を頂くことで、これまでの諸行を省みて仏に帰依する。

 得度授戒をしていない凡夫、いわゆる一般人のなかでは、日本仏教の母山である比叡山延暦寺に一番近い立場の人間となれたことへ報恩感謝し、その証として、ブログを通じてリアルな比叡山の情報を発信して行きたい。

 また、職権を利用することで、昨今よく目にする京都の観光情報のみを紹介するブログとは一線を画した、歴史的かつ、宗教的な側面を踏まえ、本物の「心の癒し」を目的とした京都並びに周辺の観光情報を紹介して行きたい。

 その一方、趣味のロードバイクを駆使することで、大好物のラーメンを始めとしたB級グルメ等を細やかに発信し、全国より京都へ訪れてくれた方々への一助となりたい。

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