本当に癒される京都のパワースポット研究⑰仏の結界編~上賀茂神社に迫る番外編①~
皆様ご無沙汰しております。
年末の忙しい時に、愛車とパソコンの両方が一気にブッ壊れてしまい、取りあえず新しい車の購入に予算を取られ、パソコンは後回しに…
以来なかなか更新ができませんでした。
しばらくタブレットでやり過ごしていたものの、ブログのアップにまでは事足りず、先日やっと貧乏サラリーマンの予算が見合うパソコンが見つかったので、購入に踏み込みました。これで、何とかブログの更新ができそうです。

非常に遅くなりましたが、比叡山から見たご来光です。元日は終日曇天でしたが、雲の切れ間から一瞬だけ拝することができました
さて、前回のパワースポット研究では、京都における最古にしてもっとも格式の高い上賀茂・下鴨両神社と、私の提唱する「仏の三角結界」との関連性について検証しました。
古代の日本において「祭り」の代名詞だった両神社の最重要例祭「葵祭」。
とりわけその「葵祭」の中でも両神社の主祭神「賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)」が「生まれ変わる神事」と云われ、神事の中でも最も重要である「「ミアレ(下社は御蔭)の神事」を執り行う両神社の「ミアレ(御蔭)場」と、「仏の三角結界」のラインが奇妙にも一致することを突き止め、地図と照らし合わせて実証しましたね。
その関連性を解き明かそうと、その後も足しげく図書館へ通い、色々な文献を読み漁りました。その結果、賀茂(鴨)一族についての重要な事実を探し当てたんです。
何とこの上・下両神社の主祭神を一族の祖と仰ぐ賀茂(鴨)一族は、平安時代、朝廷において暦を始め占術や呪術を司る役職「陰陽師」の宗家だったんです。
「陰陽師」は、夢枕獏氏原作の『陰陽師』の中で、安倍晴明が呪術で手下の鬼たちを使い、妖怪たちと対峙していく姿が一躍脚光を浴びたので、皆さんもよくご存じでしょう。
数年前には狂言師野村萬斎さんの主演で映画化されて大ヒットを飛ばし、一躍日本に「陰陽師」ブーム、「安倍晴明」ブームを引き起こしましたね。
昨今の京都観光では、この「陰陽師」の不思議なパワーにあやかりたいと京都を訪れる方々が後を絶たちません。私もたまに「安倍晴明」の屋敷跡と伝わる「晴明神社」を訪れますが、いつも凄い人気です。

陰陽師ブームで参詣者の絶えない清明神社
以前友人から、このパワースポット研究で「ぜひ安倍晴明のことを取り上げてほしい」とのリクエストを受けていたので、暇を見計らって「晴明神社」を調べていたのですが、ひょんな所から安倍晴明がこの賀茂(鴨)一族と「仏の結界」に重要な役割を果たしていることがわかってきました。皆さんも非常に興味をお持ちでしょうし、ネタも揃えたので公表したいのですが…
しかし…
その前に、きっちりと賀茂(鴨)一族と「仏の結界」との関連性を総括しておかなければ、「京都に張り巡らされた結界」について前に進めません。
よって、今回のパワースポット研究は、「仏の結界編⑰上賀茂神社に迫る番外編」として、賀茂(鴨)一族と「陰陽師」、はたまた「修験道」の関係についてお話ししたいと思います。
安倍晴明については、この話が落ち着いたらゆっくりと検証させていただきたいと思いますので、もう少し時間をくださいね。(^_-)
さて、「安倍晴明」の大ヒットのおかげで日本中知らない人がいないくらい有名になった「陰陽師」。
この「陰陽道」の日本における宗家、いわゆる総本家というのは安倍晴明ではなく、何を隠そうこの賀茂(鴨)一族なのです。
そもそも「陰陽師」が使いこなす「陰陽道」とは、一体何なのか?
魑魅魍魎が都を跋扈するとても摩訶不思議なイメージが付きまといますね。
本来「陰陽道」とは、5世紀から6世紀頃中国から仏教や儒教とともに日本に伝わった「陰陽五行説」が始まりと云われており、その歴史は非常に古く、元々は天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる普通の一般的な学問でした。
それが時代を経て、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会で独特に発達したと云われています。
陰陽道の伝来当初は、おもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶がその役職を担わっていましたが、やがて朝廷が、暦や吉兆に目をつけ、必要とし始めたことから、陰陽道の技術は国家管理の独占へとはかられて行きました。
それが平安時代にもなると、宮廷を始め都の内部で「怨霊」に対する御霊信仰が興り始め、一気にブレイクしました。
その機会に陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の生活に影響を与えるようになったそうです。
よって日本の陰陽道は、中国古来の「道教」の方術に由来する方違、物忌、などの呪術や土地の吉凶に関する風水説、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、また、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げました。
8世紀末になると、仏教の秘法である「密教の呪法」や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受け、今私たちが知るようなスピリチュアルな存在となっていきます。
陰陽道の説明はこれくらいにしといて
当時数いた「陰陽師」の中でも賀茂(鴨)一族が輩出した賀茂忠行(?~930年?)は、時の醍醐天皇より「天下に並ぶもの無し」といわれるほどの天才呪術者であったと云われ、先ほどの「安倍晴明」の師匠になり晴明を育てます。
つまり、中国で生まれ仏教とともに日本に伝来した陰陽道は、本来自然科学的な学問だったはずなのに、どういう訳か日本でミステリアスな独自の進化を遂げ、私たちが現在一般的に知っている日本独特の呪術を用いるような「陰陽道」となったんですね。
そしてその独自の進化を遂げた「陰陽道」を極めた元祖が、賀茂忠行となるわけなんですね。

上賀茂神社細殿前にある「立砂(たてすな)」賀茂別雷神が降臨された憑代をあらわしていると云われ、このような祭祀方法は賀茂(鴨)一族独自のものと云われている
さて話を戻しますが、賀茂(鴨)氏の一族である賀茂忠行の出現により、賀茂氏が朝廷内で、暦や地相を占う専門の役職である「陰陽師」の宗家になったということは記録にありますので明白です。
しかし、冷静に考えて、平安時代になっていきなり忠行が一代で「陰陽道」を極めてしまったというのは少々不自然な気がしませんか?
いかに呪術に対して非凡な才能を発揮したとしても、何らかの基本的な後ろ盾が必要だったはずです。
よって私は、「ひょっとしたら、忠行が歴史の舞台に出現するそれ以前から賀茂(鴨)一族には、すでに占術や呪術のノウハウがあったのでないか」と思うようになりました。
調べてみたところ、賀茂(鴨)一族の発祥の地と伝わる大和葛城(奈良県御所市)地方は、山岳での修行で仙人になろうとする「修験道」(山伏とか、ホラ貝を吹いて山中で修行する行者さんのこと)の聖地で、その開祖である伝説の呪術者「役行者・小角(えんのぎょうじゃ・おづの)」(634~701年)が生まれた地としても有名です。

滋賀県東近江市石馬寺に伝わる「役行者」と前鬼、後鬼の木像
この役行者は仙人となり、「雲に乗り、一晩で富士山まで往復し、修行した」とか、「前鬼、後鬼という鬼を手下に使っていた」という伝説が今も残っています。
驚くことに、何とこの役行者は、賀茂一族の出身なんです。
つまり、日本で独特の進化を遂げた陰陽道において日本を代表する呪術の元祖たる2名は、賀茂(鴨)一族の出身ということなんです。
ついでに言うと、陰陽道の聖典と云われる『金烏玉兎集』を唐より持ち帰った、吉備真備(きびのまきび・695~775年)も賀茂(鴨)一族であり、『今昔物語』では、「陰陽道」の祖と云われています。
だとすれば、賀茂(鴨)一族は、平安建都以前から、すでに「陰陽道」のほかに「修験道」から発生した呪術や占術の技術を持ち、また、吉備真備ら賀茂(鴨)一族の留学生によって、唐より最先端の学問を持ち帰ることにより、陰陽道の技術のノウハウを蓄積していったとしても何ら不思議ではありません。
私は、元来賀茂一族の間で受け継がれてきた「陰陽道」や「修験道」にまつわる不思議な力や才能が、特に役行者や賀茂忠行には色濃く出てしまい、その結果、賀茂(鴨)一族が「陰陽師」と「修験道」の宗家となったのかも知れないと思いました。
話を京都の結界に戻しますが、
重要なのは、この賀茂(鴨)一族が、中国より伝来した自然科学的な「陰陽道」に、一族に伝わる呪術的な何かを加えて、日本独特の「陰陽道」を創り上げ、その圧倒的な呪術の力を用いて古代の京都(当時の山背の国)に、結界を張ったのでないかとゆうことなんです。
下の地図はいつもの自家製の見にくい地図ですが、まぁ見て下さい。

不思議なことに、私が提唱する京都に張られた二つの結界、下鴨神社・松尾大社・伏見稲荷を頂点とする「京都三大大社の三角結界」と、神護寺・延暦寺・極楽寺を頂点とする「仏の三角結界」の重要な位置に唯一重複している場所は、この賀茂(鴨)一族が奉祀する上・下両神社だけなんです。
しかも、両方の結界とも起点となる最も重要な地点に上・下両神社は存在するわけなんです。
まったく凄い偶然ですよね。
しかし、前回にも言わせていただきましたが、「この事実は偶然なのかもしれないですが、確かに事実なのです」。
驚きと同時に、さまざまな疑問も湧き上がってきます。そもそも結界を張る以前に、これほどの高い文化や技術を持っている大豪族の賀茂(鴨)一族が、なぜ京都(山背)を始め、奈良、岡山、島根等の西日本の各地に分散しているのか?
もうこれは日本の歴史上最大の闇に足を踏み込まねば理解できない問題になってしまっていますよね。
最近は、『古事記』や『日本書紀』などの現代口語訳が気軽にネット上で閲覧できるうえ、意識の高いアマチュア歴史研究者の方々による質の高い、かつ、学者先生方のような思考の止まってしまった頭の固い論文ではなく、非常に柔軟な発想で研究をされ、また、その成果をネット上で発表されているので、かなり短時間で色々な方々の日本創生期へのアプローチを学ぶことができます。
これらのサイト等を閲覧させていただくと、非常に勉強になるだけでなく、良い意味で刺激され、やる気ががぜん出てきます。
色々な方の考えと、私の研究の結果を考えると、
「賀茂(鴨)一族は、古代日本の支配者であったが、皇室の祖である、大和朝廷に征服された王族だったのではないか?」
そして
被征服後、王族並びに関係眷属は全国にちらばり、各地に祖先を弔う神社を建立していったのではないか?
そこから考えると
「上賀茂・下鴨両神社は、征服された旧王朝の怨霊を慰めるために建立された神社ではないのか?」
ことです。
つまりいわゆる「雷神」というのは「怨霊」のことではないか。
そういえば、前々回にお話しした「上・下両御霊神社」に祀られている八柱の怨霊の内、あとから追加された二柱は「火雷」と「吉備真備」でしたね。
ここから先は、日本史最大のミステリーに足を踏み込むことになり、かなりスペースを割いてしまいますので、次回詳しくお話ししたいと思います。
突拍子もない話のようですが、謎を解く手がかりは、あの中国の歴史の中に連綿と受け継がれてきていたのです。
楽しみにしておいてください。
年末の忙しい時に、愛車とパソコンの両方が一気にブッ壊れてしまい、取りあえず新しい車の購入に予算を取られ、パソコンは後回しに…
以来なかなか更新ができませんでした。
しばらくタブレットでやり過ごしていたものの、ブログのアップにまでは事足りず、先日やっと貧乏サラリーマンの予算が見合うパソコンが見つかったので、購入に踏み込みました。これで、何とかブログの更新ができそうです。

非常に遅くなりましたが、比叡山から見たご来光です。元日は終日曇天でしたが、雲の切れ間から一瞬だけ拝することができました
さて、前回のパワースポット研究では、京都における最古にしてもっとも格式の高い上賀茂・下鴨両神社と、私の提唱する「仏の三角結界」との関連性について検証しました。
古代の日本において「祭り」の代名詞だった両神社の最重要例祭「葵祭」。
とりわけその「葵祭」の中でも両神社の主祭神「賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)」が「生まれ変わる神事」と云われ、神事の中でも最も重要である「「ミアレ(下社は御蔭)の神事」を執り行う両神社の「ミアレ(御蔭)場」と、「仏の三角結界」のラインが奇妙にも一致することを突き止め、地図と照らし合わせて実証しましたね。
その関連性を解き明かそうと、その後も足しげく図書館へ通い、色々な文献を読み漁りました。その結果、賀茂(鴨)一族についての重要な事実を探し当てたんです。
何とこの上・下両神社の主祭神を一族の祖と仰ぐ賀茂(鴨)一族は、平安時代、朝廷において暦を始め占術や呪術を司る役職「陰陽師」の宗家だったんです。
「陰陽師」は、夢枕獏氏原作の『陰陽師』の中で、安倍晴明が呪術で手下の鬼たちを使い、妖怪たちと対峙していく姿が一躍脚光を浴びたので、皆さんもよくご存じでしょう。
数年前には狂言師野村萬斎さんの主演で映画化されて大ヒットを飛ばし、一躍日本に「陰陽師」ブーム、「安倍晴明」ブームを引き起こしましたね。
昨今の京都観光では、この「陰陽師」の不思議なパワーにあやかりたいと京都を訪れる方々が後を絶たちません。私もたまに「安倍晴明」の屋敷跡と伝わる「晴明神社」を訪れますが、いつも凄い人気です。

陰陽師ブームで参詣者の絶えない清明神社
以前友人から、このパワースポット研究で「ぜひ安倍晴明のことを取り上げてほしい」とのリクエストを受けていたので、暇を見計らって「晴明神社」を調べていたのですが、ひょんな所から安倍晴明がこの賀茂(鴨)一族と「仏の結界」に重要な役割を果たしていることがわかってきました。皆さんも非常に興味をお持ちでしょうし、ネタも揃えたので公表したいのですが…
しかし…
その前に、きっちりと賀茂(鴨)一族と「仏の結界」との関連性を総括しておかなければ、「京都に張り巡らされた結界」について前に進めません。
よって、今回のパワースポット研究は、「仏の結界編⑰上賀茂神社に迫る番外編」として、賀茂(鴨)一族と「陰陽師」、はたまた「修験道」の関係についてお話ししたいと思います。
安倍晴明については、この話が落ち着いたらゆっくりと検証させていただきたいと思いますので、もう少し時間をくださいね。(^_-)
さて、「安倍晴明」の大ヒットのおかげで日本中知らない人がいないくらい有名になった「陰陽師」。
この「陰陽道」の日本における宗家、いわゆる総本家というのは安倍晴明ではなく、何を隠そうこの賀茂(鴨)一族なのです。
そもそも「陰陽師」が使いこなす「陰陽道」とは、一体何なのか?
魑魅魍魎が都を跋扈するとても摩訶不思議なイメージが付きまといますね。
本来「陰陽道」とは、5世紀から6世紀頃中国から仏教や儒教とともに日本に伝わった「陰陽五行説」が始まりと云われており、その歴史は非常に古く、元々は天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる普通の一般的な学問でした。
それが時代を経て、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会で独特に発達したと云われています。
陰陽道の伝来当初は、おもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶がその役職を担わっていましたが、やがて朝廷が、暦や吉兆に目をつけ、必要とし始めたことから、陰陽道の技術は国家管理の独占へとはかられて行きました。
それが平安時代にもなると、宮廷を始め都の内部で「怨霊」に対する御霊信仰が興り始め、一気にブレイクしました。
その機会に陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の生活に影響を与えるようになったそうです。
よって日本の陰陽道は、中国古来の「道教」の方術に由来する方違、物忌、などの呪術や土地の吉凶に関する風水説、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、また、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げました。
8世紀末になると、仏教の秘法である「密教の呪法」や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受け、今私たちが知るようなスピリチュアルな存在となっていきます。
陰陽道の説明はこれくらいにしといて
当時数いた「陰陽師」の中でも賀茂(鴨)一族が輩出した賀茂忠行(?~930年?)は、時の醍醐天皇より「天下に並ぶもの無し」といわれるほどの天才呪術者であったと云われ、先ほどの「安倍晴明」の師匠になり晴明を育てます。
つまり、中国で生まれ仏教とともに日本に伝来した陰陽道は、本来自然科学的な学問だったはずなのに、どういう訳か日本でミステリアスな独自の進化を遂げ、私たちが現在一般的に知っている日本独特の呪術を用いるような「陰陽道」となったんですね。
そしてその独自の進化を遂げた「陰陽道」を極めた元祖が、賀茂忠行となるわけなんですね。

上賀茂神社細殿前にある「立砂(たてすな)」賀茂別雷神が降臨された憑代をあらわしていると云われ、このような祭祀方法は賀茂(鴨)一族独自のものと云われている
さて話を戻しますが、賀茂(鴨)氏の一族である賀茂忠行の出現により、賀茂氏が朝廷内で、暦や地相を占う専門の役職である「陰陽師」の宗家になったということは記録にありますので明白です。
しかし、冷静に考えて、平安時代になっていきなり忠行が一代で「陰陽道」を極めてしまったというのは少々不自然な気がしませんか?
いかに呪術に対して非凡な才能を発揮したとしても、何らかの基本的な後ろ盾が必要だったはずです。
よって私は、「ひょっとしたら、忠行が歴史の舞台に出現するそれ以前から賀茂(鴨)一族には、すでに占術や呪術のノウハウがあったのでないか」と思うようになりました。
調べてみたところ、賀茂(鴨)一族の発祥の地と伝わる大和葛城(奈良県御所市)地方は、山岳での修行で仙人になろうとする「修験道」(山伏とか、ホラ貝を吹いて山中で修行する行者さんのこと)の聖地で、その開祖である伝説の呪術者「役行者・小角(えんのぎょうじゃ・おづの)」(634~701年)が生まれた地としても有名です。

滋賀県東近江市石馬寺に伝わる「役行者」と前鬼、後鬼の木像
この役行者は仙人となり、「雲に乗り、一晩で富士山まで往復し、修行した」とか、「前鬼、後鬼という鬼を手下に使っていた」という伝説が今も残っています。
驚くことに、何とこの役行者は、賀茂一族の出身なんです。
つまり、日本で独特の進化を遂げた陰陽道において日本を代表する呪術の元祖たる2名は、賀茂(鴨)一族の出身ということなんです。
ついでに言うと、陰陽道の聖典と云われる『金烏玉兎集』を唐より持ち帰った、吉備真備(きびのまきび・695~775年)も賀茂(鴨)一族であり、『今昔物語』では、「陰陽道」の祖と云われています。
だとすれば、賀茂(鴨)一族は、平安建都以前から、すでに「陰陽道」のほかに「修験道」から発生した呪術や占術の技術を持ち、また、吉備真備ら賀茂(鴨)一族の留学生によって、唐より最先端の学問を持ち帰ることにより、陰陽道の技術のノウハウを蓄積していったとしても何ら不思議ではありません。
私は、元来賀茂一族の間で受け継がれてきた「陰陽道」や「修験道」にまつわる不思議な力や才能が、特に役行者や賀茂忠行には色濃く出てしまい、その結果、賀茂(鴨)一族が「陰陽師」と「修験道」の宗家となったのかも知れないと思いました。
話を京都の結界に戻しますが、
重要なのは、この賀茂(鴨)一族が、中国より伝来した自然科学的な「陰陽道」に、一族に伝わる呪術的な何かを加えて、日本独特の「陰陽道」を創り上げ、その圧倒的な呪術の力を用いて古代の京都(当時の山背の国)に、結界を張ったのでないかとゆうことなんです。
下の地図はいつもの自家製の見にくい地図ですが、まぁ見て下さい。

不思議なことに、私が提唱する京都に張られた二つの結界、下鴨神社・松尾大社・伏見稲荷を頂点とする「京都三大大社の三角結界」と、神護寺・延暦寺・極楽寺を頂点とする「仏の三角結界」の重要な位置に唯一重複している場所は、この賀茂(鴨)一族が奉祀する上・下両神社だけなんです。
しかも、両方の結界とも起点となる最も重要な地点に上・下両神社は存在するわけなんです。
まったく凄い偶然ですよね。
しかし、前回にも言わせていただきましたが、「この事実は偶然なのかもしれないですが、確かに事実なのです」。
驚きと同時に、さまざまな疑問も湧き上がってきます。そもそも結界を張る以前に、これほどの高い文化や技術を持っている大豪族の賀茂(鴨)一族が、なぜ京都(山背)を始め、奈良、岡山、島根等の西日本の各地に分散しているのか?
もうこれは日本の歴史上最大の闇に足を踏み込まねば理解できない問題になってしまっていますよね。
最近は、『古事記』や『日本書紀』などの現代口語訳が気軽にネット上で閲覧できるうえ、意識の高いアマチュア歴史研究者の方々による質の高い、かつ、学者先生方のような思考の止まってしまった頭の固い論文ではなく、非常に柔軟な発想で研究をされ、また、その成果をネット上で発表されているので、かなり短時間で色々な方々の日本創生期へのアプローチを学ぶことができます。
これらのサイト等を閲覧させていただくと、非常に勉強になるだけでなく、良い意味で刺激され、やる気ががぜん出てきます。
色々な方の考えと、私の研究の結果を考えると、
「賀茂(鴨)一族は、古代日本の支配者であったが、皇室の祖である、大和朝廷に征服された王族だったのではないか?」
そして
被征服後、王族並びに関係眷属は全国にちらばり、各地に祖先を弔う神社を建立していったのではないか?
そこから考えると
「上賀茂・下鴨両神社は、征服された旧王朝の怨霊を慰めるために建立された神社ではないのか?」
ことです。
つまりいわゆる「雷神」というのは「怨霊」のことではないか。
そういえば、前々回にお話しした「上・下両御霊神社」に祀られている八柱の怨霊の内、あとから追加された二柱は「火雷」と「吉備真備」でしたね。
ここから先は、日本史最大のミステリーに足を踏み込むことになり、かなりスペースを割いてしまいますので、次回詳しくお話ししたいと思います。
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