本当に癒される京都のパワースポット研究⑯仏の結界編~上賀茂茂神社に迫る(後編)~
今年も早いもので、あともう数日を切ってしまいました。
皆様には今年一年このブログを通して色々とお世話になり、ありがとうございました。よい正月をお迎えください。
私は、年末年始とお山に籠り、毎年ながら各種法要の撮影に追われるお正月になりそうです。
このブログをご覧の皆様もぜひ「神と仏のおわす霊峰比叡」にご参拝ください。特に大晦日年越しの「修正会の鬼追い」などは圧巻です。寒さも吹き飛びますよ。

大晦日の年越し、根本中堂前において行われる「鬼追い」の様子
さて、前回のパワースポット研究では、ついに京都最大のミステリーの一つである上賀茂・下鴨両神社の成り立ちに踏み込んでみた訳ですが、結局冒頭の部分に触れたくらいの説明で終わってしまい、両神社と「仏の結界」まで紹介することはできませんでしたね。
そこで、今回こそは両神社の存在がいかに「仏の結界」を形成する上で重要な役割を果たし、また平安の都の北方の結界として大きな影響を及ぼしてきたかを検証していきたいと思います。
私は以前から平安京には平安新仏教の頭脳集団により結界が張られていると提唱しているわけですが、結界の中でも特に神護寺~比叡山延暦寺へと続く北方のラインは最初に引かれた最も重要なラインだと常から思っていました。
何せ、この北方のラインには、下の図のように神護寺から比叡山の間に、前回でも述べました上賀茂神社の「御阿礼場(ミアレ場)」と下鴨神社における「御蔭場(みかげば)」を見事に通過しているからです。

さらに拡大

何たる偶然!
と、思いませんか?
古代山代の国を代表する大豪族「賀茂(鴨)氏」の始祖をお祀りする両神社の、主祭神が降臨された場所と伝わる最も神聖なる地が、両神社とも仏の結界上に存在しているんです。
時間軸の概念で考えれば両神社の聖地の方が「仏の結界」以前より存在しています。これぞまさしく神様と仏さまの「奇瑞の勝縁」と言えるのではないでしょうか。
ないしは、後世の最澄さま・空海さんを始めとする平安新仏教の頭脳集団がこの地勢の事実を活用し「結界」を張られたのか?
空想がどんどん膨らんでいきます。
オッと!
私一人が興奮してないで、ブログを読まれている方にもわかるように説明しなければいけないですよね。
上賀茂・下鴨神社の成り立ち等については過去のパワースポット研究をもう一度読んでもらうとして、
この両神社では、毎年5月15日に例祭として「葵祭」が開催されます。

葵祭の様子
「葵祭」とは、京都三大祭にとどまらず、祭に際して天皇から直接使者(勅使・ちょくし)が遣わされる日本三大勅祭としても有名で、京都の伝統的風物詩としてご存じの方も多いことと思います。
ちなみに昔の日本では、「神宮」と言えば伊勢神宮、「山」と言えば比叡山、そして「まつり」と言えば、「祇園祭」ではなく「葵祭」を指す言葉でした。
祭の起源は、欽明天皇の567年、風雨がはげしかったため五穀が実らず、伊吉の若日子が原因を占ったところ、「賀茂の神々の祟りである」という結果がでたことにあるそうです。
そこで若日子は勅命をおおせつかい、4月の吉日に賀茂神社にて祭礼を行ったそうで、馬には鈴をかけ、人は農耕の神様を意味する猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしました。そうしたところ風雨はおさまり、五穀は豊かに実って民の生活も安泰になったとそうです。
その時「賀茂の大神」は、「私に会いたかったらいつでもこの場所で、駆競をしなさい」と告げられたそうで、それ以来毎年旧暦の4月の酉の日に例祭として行われるようになったそうです。
その後819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になり、現在に至るという非常に長い歴史を持つ伝統的な祭事です。
この例祭のなかで最も重要な神事のひとつが、上社の「御阿礼(ミアレ)の儀」と下社の「御蔭(ミカゲ)の儀」で、共に15日の「葵祭」の当日に向け、3日前の12日に神様の新たな魂を地上にお迎えするという「神さまの生まれ変わりの」神事です。
下社は、12日の日中、主祭神「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と、その娘神「鴨玉依姫命(かもたまよりひめみこ)」が、葛城の地を後に鴨川をさかのぼり、辿り着いた山代の地で、玉依姫が賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を産み落とした場所、京都市左京区八瀬の「御蔭神社」で、執り行います。

下社「御蔭の神事」が執り行われる御蔭神社
また、上社の場合、主祭神「賀茂別雷命」が降臨されたと伝わる円山の麓にある「御阿礼場」において同じく12日の深夜「御阿礼の儀」を執り行います。
下社は「御蔭場」を別雷命が「生まれた場所」としているのにも関わらず、上社は「御阿礼場」を「降臨した場所」と断定している事にかなりの「ちぐはぐ感」を感じ、「やっぱり上・下両社の神様は親子ではないんやろうなぁ」などと思いを巡らすのですが、このお話を突き止めて行くと、再び「賀茂(鴨)氏の迷路」から抜け出せなくなってしまいますので、また別の機会におはなししようと思います。
上社の御阿礼場は、上賀茂神社の本殿より北に数百メートルの所にあり、現在は「京都ゴルフ倶楽部上賀茂コースの17番ティーグラウンド」付近にあります。

ゴルフ場内のため、写真が撮れません。地図でかんにんしてください
何でゴルフ場の中?
と思われるでしょう。
これは、敗戦後京都にやってきた米国進駐軍が、「軍人のレクレーションのためにゴルフ場を作りたい」との要望で、第一軍団軍政官少佐ハロルド・シェフィールドが中心となって造営されたものだそうです。
表向きには、京都市内で、自然を楽しむための「原生林」と「池」が二つあるという理由から上賀茂神社の神域が選ばれたそうです。
神域を穢す行為として周囲の人々は猛反対をしたらしいのですが、結局のところは敗戦国の悲しさ。 占領軍に押し切られてしまったらしいです。まさしく「鬼畜米英」の所業。神をも畏れぬ行為ですね。
しかしこんな所にも戦争の傷跡が残っており、経済活動のために問題を放置してあるとは、なんとなく心が痛いですよね。
「ミアレ」の神事についてですが、門外不出の神事のため、一切公開はされておりません。
まあ、畏れ多くて覗こうとも思いませんけどね。
さて、下社の御蔭場の件ですが、これが難儀しました。
なんせ現在御蔭の神事が執り行われている「御蔭神社」は、「仏の結界」のラインより若干南に位置するからです。
当初は、「あ~ズレてるなぁ」くらいの認識で、そんなに気にはしてなかったんですけどね。
その後上賀茂神社前編の原稿草案のため資料を集めている時に、京都産業大学教授所功先生がお書きになられた『京都の三大祭』を見つけ、かなり参考にさせていただいたのですが、その中で、下社「御蔭場」の古地図が掲載されていたんですよ。
その地図を一目見ると…
全然現在と違うんですよ。

『京の葵祭展』 p67 京都文化博物館2003に記載されている旧地御蔭社の図面
当時御蔭場は、八瀬大河(高野川)、谷川、御生川に囲まれた御蔭山(御生山)という単立峰の川中島だったことが覗えます
平安時代の御蔭場は、地形も場所も全然現在の御蔭神社とは違うんです。
たしかに下の図のように、現在の京福電鉄八瀬駅付近の地図を見つめると、駅付近の地形がかなり不自然ですよね。

京福電鉄八瀬駅付近の現在図
高野川の流れが「ゴボッ」と、この地点だけ明らかに不自然に湾曲していませんか。
不思議に思い調べてみると、
やっぱりありました。
下鴨神社の宮司である新木直人氏の『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』によると、この場所は宝暦8年(1758)8月22日に長雨のためにおこった土砂崩れで、神社東側が土石流で埋もれてしまったそうです。
また、文政13年(1830)には、大地震により比叡山の西峰が大きく崩壊し、そのため高野川の流れが完全にかわってしまい、社殿が完全に流損したそうなんです。
そのため天保5年(1834)に現在の新社地に社殿を上棟し、御蔭山城の跡に御蔭神社として再建したそうです。

御蔭神社から山中に登ると、山城であった石垣跡が今も残っている
つまり、現在の御蔭場は南に移動している訳なんですね。
そうなると、話は変わって来ます。早速新木氏の説をもとに旧社殿の跡地を検証してみました。
高野川の流れと、先の古地図から想像すると…

平安時代の高野川の流れと、旧御蔭場の想像図
するとどうでしょう、ほぼピッタリと「仏の結界」に当てはまってしまいました。
なぜか涙が止まりません。
頭の中を、当代きっての芸術家、棟方志功氏の言葉がよぎります。
氏は、仏教彫刻を得意とし、その芸術性を「仏さまを彫っているのではなく木の中に埋もれておられる仏様さまを見つけ出し、掘り起こしているだけ」と、述べたそうです。
つまり「自らの意思ではなく、仏の意志に従っているだけ」ということらしいです。
わたしも今まったく同じ感覚なのです。
「仏の三角形」を形成する最後の一点「極楽寺」の時も、「当てずっぽう」で線を引くと、そこに平安寺院代表するような大伽藍が存在しており、日本の仏教界を変えるような大宗教家の大いなる礎となった寺院が建立されていました。
また、大文字山から神護寺にかけて引かれた「仏の結界」の中心線上には、足利将軍家繁栄のために築かれた大伽藍が三寺院も建立されていました。
これだけ偶然とはいえない数々の事実が重なると、
私が「仏の結界」を提唱しているのではなく、神さまや仏さまのご意志で、私が「掘り起こして」いる感覚にとらわれてくるのです。
なにか「大きな意志」に触れることができたようなそんな感動を覚えます。
話を戻します。
つまり
京都のみならず、日本を代表する、上賀茂神社、下鴨神社両神社の最も神聖なる地は仏の結界上に存在するのです。
偶然かもしれません。
しかし事実なんです。
この事実をもとに結界が張られたのかも知れません。
いずれお話しますが、私は室町幕府を興した足利将軍家の衰退は、十代将軍足利義稙により「仏の結界」が放棄されたからだと思っています。
この事例もとに時代考証すると、天皇が東京に出向かれるきっかけとなった「明治維新」の始まりは、御蔭神社を山中に移した頃と重なってきます。

湾曲した高野川の流れから御蔭山(写真中央)、その背後には比叡山がそびえる
もしかしてだけど…
(もしかしてだけど)
「結界を動かしてしまったことで、悠久の平安の都が平安でなくなるきっかけになったのかも知れないんじゃないの?」
と歌いだしたくなりますね。
下賀茂神社の御蔭場である御蔭神社へは、京福電鉄「八瀬比叡山口」まで電車で行き、到着後歩いて10分ほどの場所にあります。
まぁ車で訪れても、少々ならば駐禁を切られることはないと思いますが。
めったに人も来ない寂しい場所ですが、鴨一族が山代の地に辿り着いた悠久のロマンを感じるには最高の場所だと思いますよ。
上賀茂神社の御阿礼場は、先ほども申しました通り、京都ゴルフ倶楽部の敷地内となりますので、ゴルファー以外には立ち入ることはできません。もしプレイに訪れた時には、一礼をして通りたいものですね。
上賀茂神社「御阿礼場」
大きな地図で見る
下鴨神社「御蔭神社」
大きな地図で見る
皆様には今年一年このブログを通して色々とお世話になり、ありがとうございました。よい正月をお迎えください。
私は、年末年始とお山に籠り、毎年ながら各種法要の撮影に追われるお正月になりそうです。
このブログをご覧の皆様もぜひ「神と仏のおわす霊峰比叡」にご参拝ください。特に大晦日年越しの「修正会の鬼追い」などは圧巻です。寒さも吹き飛びますよ。

大晦日の年越し、根本中堂前において行われる「鬼追い」の様子
さて、前回のパワースポット研究では、ついに京都最大のミステリーの一つである上賀茂・下鴨両神社の成り立ちに踏み込んでみた訳ですが、結局冒頭の部分に触れたくらいの説明で終わってしまい、両神社と「仏の結界」まで紹介することはできませんでしたね。
そこで、今回こそは両神社の存在がいかに「仏の結界」を形成する上で重要な役割を果たし、また平安の都の北方の結界として大きな影響を及ぼしてきたかを検証していきたいと思います。
私は以前から平安京には平安新仏教の頭脳集団により結界が張られていると提唱しているわけですが、結界の中でも特に神護寺~比叡山延暦寺へと続く北方のラインは最初に引かれた最も重要なラインだと常から思っていました。
何せ、この北方のラインには、下の図のように神護寺から比叡山の間に、前回でも述べました上賀茂神社の「御阿礼場(ミアレ場)」と下鴨神社における「御蔭場(みかげば)」を見事に通過しているからです。

さらに拡大

何たる偶然!
と、思いませんか?
古代山代の国を代表する大豪族「賀茂(鴨)氏」の始祖をお祀りする両神社の、主祭神が降臨された場所と伝わる最も神聖なる地が、両神社とも仏の結界上に存在しているんです。
時間軸の概念で考えれば両神社の聖地の方が「仏の結界」以前より存在しています。これぞまさしく神様と仏さまの「奇瑞の勝縁」と言えるのではないでしょうか。
ないしは、後世の最澄さま・空海さんを始めとする平安新仏教の頭脳集団がこの地勢の事実を活用し「結界」を張られたのか?
空想がどんどん膨らんでいきます。
オッと!
私一人が興奮してないで、ブログを読まれている方にもわかるように説明しなければいけないですよね。
上賀茂・下鴨神社の成り立ち等については過去のパワースポット研究をもう一度読んでもらうとして、
この両神社では、毎年5月15日に例祭として「葵祭」が開催されます。

葵祭の様子
「葵祭」とは、京都三大祭にとどまらず、祭に際して天皇から直接使者(勅使・ちょくし)が遣わされる日本三大勅祭としても有名で、京都の伝統的風物詩としてご存じの方も多いことと思います。
ちなみに昔の日本では、「神宮」と言えば伊勢神宮、「山」と言えば比叡山、そして「まつり」と言えば、「祇園祭」ではなく「葵祭」を指す言葉でした。
祭の起源は、欽明天皇の567年、風雨がはげしかったため五穀が実らず、伊吉の若日子が原因を占ったところ、「賀茂の神々の祟りである」という結果がでたことにあるそうです。
そこで若日子は勅命をおおせつかい、4月の吉日に賀茂神社にて祭礼を行ったそうで、馬には鈴をかけ、人は農耕の神様を意味する猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしました。そうしたところ風雨はおさまり、五穀は豊かに実って民の生活も安泰になったとそうです。
その時「賀茂の大神」は、「私に会いたかったらいつでもこの場所で、駆競をしなさい」と告げられたそうで、それ以来毎年旧暦の4月の酉の日に例祭として行われるようになったそうです。
その後819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になり、現在に至るという非常に長い歴史を持つ伝統的な祭事です。
この例祭のなかで最も重要な神事のひとつが、上社の「御阿礼(ミアレ)の儀」と下社の「御蔭(ミカゲ)の儀」で、共に15日の「葵祭」の当日に向け、3日前の12日に神様の新たな魂を地上にお迎えするという「神さまの生まれ変わりの」神事です。
下社は、12日の日中、主祭神「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と、その娘神「鴨玉依姫命(かもたまよりひめみこ)」が、葛城の地を後に鴨川をさかのぼり、辿り着いた山代の地で、玉依姫が賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を産み落とした場所、京都市左京区八瀬の「御蔭神社」で、執り行います。

下社「御蔭の神事」が執り行われる御蔭神社
また、上社の場合、主祭神「賀茂別雷命」が降臨されたと伝わる円山の麓にある「御阿礼場」において同じく12日の深夜「御阿礼の儀」を執り行います。
下社は「御蔭場」を別雷命が「生まれた場所」としているのにも関わらず、上社は「御阿礼場」を「降臨した場所」と断定している事にかなりの「ちぐはぐ感」を感じ、「やっぱり上・下両社の神様は親子ではないんやろうなぁ」などと思いを巡らすのですが、このお話を突き止めて行くと、再び「賀茂(鴨)氏の迷路」から抜け出せなくなってしまいますので、また別の機会におはなししようと思います。
上社の御阿礼場は、上賀茂神社の本殿より北に数百メートルの所にあり、現在は「京都ゴルフ倶楽部上賀茂コースの17番ティーグラウンド」付近にあります。

ゴルフ場内のため、写真が撮れません。地図でかんにんしてください
何でゴルフ場の中?
と思われるでしょう。
これは、敗戦後京都にやってきた米国進駐軍が、「軍人のレクレーションのためにゴルフ場を作りたい」との要望で、第一軍団軍政官少佐ハロルド・シェフィールドが中心となって造営されたものだそうです。
表向きには、京都市内で、自然を楽しむための「原生林」と「池」が二つあるという理由から上賀茂神社の神域が選ばれたそうです。
神域を穢す行為として周囲の人々は猛反対をしたらしいのですが、結局のところは敗戦国の悲しさ。 占領軍に押し切られてしまったらしいです。まさしく「鬼畜米英」の所業。神をも畏れぬ行為ですね。
しかしこんな所にも戦争の傷跡が残っており、経済活動のために問題を放置してあるとは、なんとなく心が痛いですよね。
「ミアレ」の神事についてですが、門外不出の神事のため、一切公開はされておりません。
まあ、畏れ多くて覗こうとも思いませんけどね。
さて、下社の御蔭場の件ですが、これが難儀しました。
なんせ現在御蔭の神事が執り行われている「御蔭神社」は、「仏の結界」のラインより若干南に位置するからです。
当初は、「あ~ズレてるなぁ」くらいの認識で、そんなに気にはしてなかったんですけどね。
その後上賀茂神社前編の原稿草案のため資料を集めている時に、京都産業大学教授所功先生がお書きになられた『京都の三大祭』を見つけ、かなり参考にさせていただいたのですが、その中で、下社「御蔭場」の古地図が掲載されていたんですよ。
その地図を一目見ると…
全然現在と違うんですよ。

『京の葵祭展』 p67 京都文化博物館2003に記載されている旧地御蔭社の図面
当時御蔭場は、八瀬大河(高野川)、谷川、御生川に囲まれた御蔭山(御生山)という単立峰の川中島だったことが覗えます
平安時代の御蔭場は、地形も場所も全然現在の御蔭神社とは違うんです。
たしかに下の図のように、現在の京福電鉄八瀬駅付近の地図を見つめると、駅付近の地形がかなり不自然ですよね。

京福電鉄八瀬駅付近の現在図
高野川の流れが「ゴボッ」と、この地点だけ明らかに不自然に湾曲していませんか。
不思議に思い調べてみると、
やっぱりありました。
下鴨神社の宮司である新木直人氏の『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』によると、この場所は宝暦8年(1758)8月22日に長雨のためにおこった土砂崩れで、神社東側が土石流で埋もれてしまったそうです。
また、文政13年(1830)には、大地震により比叡山の西峰が大きく崩壊し、そのため高野川の流れが完全にかわってしまい、社殿が完全に流損したそうなんです。
そのため天保5年(1834)に現在の新社地に社殿を上棟し、御蔭山城の跡に御蔭神社として再建したそうです。

御蔭神社から山中に登ると、山城であった石垣跡が今も残っている
つまり、現在の御蔭場は南に移動している訳なんですね。
そうなると、話は変わって来ます。早速新木氏の説をもとに旧社殿の跡地を検証してみました。
高野川の流れと、先の古地図から想像すると…

平安時代の高野川の流れと、旧御蔭場の想像図
するとどうでしょう、ほぼピッタリと「仏の結界」に当てはまってしまいました。
なぜか涙が止まりません。
頭の中を、当代きっての芸術家、棟方志功氏の言葉がよぎります。
氏は、仏教彫刻を得意とし、その芸術性を「仏さまを彫っているのではなく木の中に埋もれておられる仏様さまを見つけ出し、掘り起こしているだけ」と、述べたそうです。
つまり「自らの意思ではなく、仏の意志に従っているだけ」ということらしいです。
わたしも今まったく同じ感覚なのです。
「仏の三角形」を形成する最後の一点「極楽寺」の時も、「当てずっぽう」で線を引くと、そこに平安寺院代表するような大伽藍が存在しており、日本の仏教界を変えるような大宗教家の大いなる礎となった寺院が建立されていました。
また、大文字山から神護寺にかけて引かれた「仏の結界」の中心線上には、足利将軍家繁栄のために築かれた大伽藍が三寺院も建立されていました。
これだけ偶然とはいえない数々の事実が重なると、
私が「仏の結界」を提唱しているのではなく、神さまや仏さまのご意志で、私が「掘り起こして」いる感覚にとらわれてくるのです。
なにか「大きな意志」に触れることができたようなそんな感動を覚えます。
話を戻します。
つまり
京都のみならず、日本を代表する、上賀茂神社、下鴨神社両神社の最も神聖なる地は仏の結界上に存在するのです。
偶然かもしれません。
しかし事実なんです。
この事実をもとに結界が張られたのかも知れません。
いずれお話しますが、私は室町幕府を興した足利将軍家の衰退は、十代将軍足利義稙により「仏の結界」が放棄されたからだと思っています。
この事例もとに時代考証すると、天皇が東京に出向かれるきっかけとなった「明治維新」の始まりは、御蔭神社を山中に移した頃と重なってきます。

湾曲した高野川の流れから御蔭山(写真中央)、その背後には比叡山がそびえる
もしかしてだけど…
(もしかしてだけど)
「結界を動かしてしまったことで、悠久の平安の都が平安でなくなるきっかけになったのかも知れないんじゃないの?」
と歌いだしたくなりますね。
下賀茂神社の御蔭場である御蔭神社へは、京福電鉄「八瀬比叡山口」まで電車で行き、到着後歩いて10分ほどの場所にあります。
まぁ車で訪れても、少々ならば駐禁を切られることはないと思いますが。
めったに人も来ない寂しい場所ですが、鴨一族が山代の地に辿り着いた悠久のロマンを感じるには最高の場所だと思いますよ。
上賀茂神社の御阿礼場は、先ほども申しました通り、京都ゴルフ倶楽部の敷地内となりますので、ゴルファー以外には立ち入ることはできません。もしプレイに訪れた時には、一礼をして通りたいものですね。
上賀茂神社「御阿礼場」
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