fc2ブログ

本当に癒される京都のパワースポット研究⑱~安倍清明と平安京の結界~前篇

無差別自爆テロが心配されていた冬季オリンピックも無事終焉を迎え、全ての出場選手並びに関係者の皆さまには、本当にお疲れさまでした。大会の成功を心から祝福いたします。



 さて、ここ何回かのパワースポット研究では、完全に日本史最大のミステリーにはまり込んでしまい、日本の黎明期にまで踏み込んでいってしまいました。

 おかげで今では賀茂(鴨)一族のミステリアスな魅力にすっかり心を奪われてしまい、その成り立ちから、大和朝廷との関連性まで、中国の歴史書にまで範囲を広げ、現在も進行形で調査を継続しております。

 しかし、冷静になって考えてみれば、賀茂(鴨)一族の研究にはまればはまるほど、そもそもブログを開設した当初の目的とは全く異をなしてきており、完全に自己満足の世界に浸ってしまっているということに気づきました。

 資料も膨大なうえ、現地に行っての調査も考えると、皆さんに報告できる形にするのに1年単位ほどの時間を要します。

 まさしく「ミイラとりがミイラ」ですよね。

 そこで、賀茂(鴨)一族の神秘的なベールに包まれた真相は、引き続き調査を継続して行くということで、本筋の京都における「パワースポットの研究」を進めて行きたいと思います。


IMG_2344.jpg
今回のテーマである、安倍晴明をお祀りする晴明神社


 そんなわけで、今回の「パワースポット研究」では、前回少しだけ触れました、日本歴史上一番有名「陰陽師」である安倍清明

 また、清明の邸跡と伝わる「清明神社」と、私の提唱する「仏の三角結界」の関係性についてお話ししたいと思います。

 安倍晴明(あべのせいめい・921~1005年)は、平安時代の陰陽師で、鎌倉時代から明治時代初めまで朝廷の陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖として有名ですね。

images.jpg
安倍晴明の御影


 最近では、本、漫画、または映画等の『陰陽師』で、一躍全国区で有名となったので、今さら私の口からウンチクをたれる必要もないですよね。

 一般的な知識は他の方のブログでよく取り上げられていますからね。

 このブログを読まれている方も私より詳しい方はたくさんおられるでしょう。
だから省きますね。
(^◇^)

IMG_2333.jpg
堀川通りから見た「晴明神社」。五芒星の掲げられた鳥居が印象的です



 早速本題に入ってしまいますが…


 今回のパワースポット研究で、他の方には絶対に見つけられない、また気づいたこともないような研究成果がありました。

 それは…


「安倍晴明は、仏の結界の存在を知っていた」と、いうことです。


 おいおいって…( ゚Д゚) びっくりするでしょ。

もちろん根拠はちゃんとあります。


 それは、「晴明神社」が建てられている場所にあるんです。


 東西随一「陰陽師」である安倍晴明不思議なパワーをいただこうと、私もよく「晴明神社」に足を運びますが、まぁ~いつ詣でても「晴明さんのパワーにあやかりたい」と、境内はたくさんの人々で賑わっています。


「何を根拠にこれほどの参詣客が訪れるのか?」


 やはり、マスコミや、TVの影響なんでしょうね。とにかく凄いですよ。

 神社の片隅には、パワーを得ようと瞑想にふけっている方々もたくさん見かけます。

IMG_8664.jpg
晴明神社のすぐ南にある「一条戻り橋」
晴明は、この橋の影に鬼たちを隠したと云われる。ちなみに「戻り橋」の語源は、以前にお話しした「三好浄蔵」さんに由来します


 さて、話を本題に戻しますが、この「晴明神社」の由緒は、一般的には、元々この地に「晴明の邸」があり、晴明の没後、その遺徳を顕彰し、晴明の霊を弔うため創建されたと伝わっています。

 その規模たるや、現在の境内の数倍の面積を誇ったと伝わっています。


 が、しかし…


 最近の研究によりますと、晴明の邸跡だったというのは、まったく「こじつけ」だそうで、実際の「安倍晴明邸」は、数々の研究者の学術調査により「晴明神社」より東南へ5~600メートルほど下った、現在の「上京区西洞院上長者町通り土御門町」に在ったとほぼ確定されています

IMG_8668.jpg
晴明の邸があったと伝わる土御門町。京都情緒あふれる町家が連なっている


 じゃあ、どうして今の場所に「晴明神社」があるの?


 不思議ですよね。

 どうしてそんなややこしいことをしたのでしょう。

 別に、邸跡などと、由緒をこじつける必要はないでしょう。

 これは、何かを重要な事柄を隠そうとしているのではないかと、いつもの私の提唱する「仏の三角結界」ラインをひいてみたわけなんです。


 その結果なんですが…

まぁ下の地図を見てください。

清明神社

 
 現在の「晴明神社」から北東の方角へとラインを伸ばしていくと、私の提唱する「京都三大大社の三角結界」の三つの頂点の一つである「下鴨神社」へと向かいます。

 この「下鴨神社」は、何と、彼を「陰陽師」の道へと導いてくれた師匠「賀茂忠行」の出身一族、賀茂(鴨)一族祖神を祀っている神社なんです。
 IMG_7410.jpg
賀茂(鴨)一族の祖神を祀る下鴨(賀茂御祖)神社


 また、南西の方角にラインを伸ばすと、これまた「三大大社の三角結界」もう一つの頂点であり、賀茂(鴨)一族と京都を二分した渡来系大豪族「秦氏」祖神として「松尾の猛霊」と畏れられた「松尾大社」へと繋がっています
IMG_7364.jpg
秦一族の祖神を祀る松尾大社


 つまり、「晴明神社」は、京都二分した大豪族「賀茂の厳神」賀茂(鴨)一族と、「松尾の猛霊」秦一族アイデンティティの象徴である祖廟を結ぶライン上に存在するのです。


 それだけでもビックリですが、何とそれのみならず下鴨神社へと続いているそのラインをそのまま北東へ延長していくと、そこには、何とこれまた私の提唱する「仏の三角結界」頂点である「比叡山延暦寺」まで繋がってしまうんです。
根本中堂
平安京の鬼門を護る比叡山延暦寺


 これは、一体どういうことでしょう?


 非常に不思議な位置関係だと思いませんか。
  

 つまり、「晴明神社」は、安倍晴明の邸跡云々はまったく関係なく、平安京建都以前より、「山背の地」を支配した大豪族が結界を張り護り続けた「三大大社の三角結界」と、平安京遷都後に、最澄さま空海さんを先頭にした平安新仏教の頭脳集団により「平安の都を守護するため」に張られた、「仏の三角結界」との共通のライン上に何かの意図をもって創建された「結界の一部」ということなんですよ。

結界
「三大大社の三角結界」と「仏の結界」を示す図


 「これは偶然か?」

 このブログで何度も言っていることですが、「しかし事実なんです」よ。

 地図を詳細に見てみると、若干現在の「晴明神社」とずれが見られますが、現在の社殿は昭和25年に建て替えられたそうなんです。

 この神社は、創建当初には莫大な敷地面積を誇っていたわけですから、当時神社の境内では、おそらくこのライン上に何か重要なものが、奉安されていたことでしょう。


 なぜ、この場所に?

 「晴明」は、自らが持てる「陰陽師」の算術技術を駆使してこの地点を割出し、死後は「結界を護る神」としてこの地点に鎮座したのか?
 
 はたまた、この二つの結界の秘密を知る他の誰かが、「晴明」の死後もその「呪術の力」で、平安京の王城鎮護のため、この神社を創建したのか?

 想像するだけでワクワクしますよね。

IMG_2349.jpg
晴明神社の本殿 脇には安倍晴明の銅像が安置されている


 さて、みなさんが一番知りたい「この神社は、どんなパワーに溢れているか」?

 つまり、どんな御利益がいただけるかですが。


 まぁ、平安京を護る上で「三大大社の三角結界」「仏の三角結界」という二つの結界が重複する、重要な地点に、これほどの霊力を持った晴明「神」として祀られているのですから、「京都におけるパワースポット」として、かなりの「パワー」がいただけるのは、間違い無いでしょう。


 先日TVの何とかロードショーで放映された『陰陽師』の、平安京を護る「晴明」のワンシーンが目に浮かんできますが、まさしくそのシーンのパワーが実際に込められているパワースポットだと思いますよ。


 ただ、このブログを読まれて「晴明神社」へと参詣に訪れるかたにお願いしたいのは、マスコミ等に煽られたスピリチュアルブームで「安倍晴明」のパワーをいただきに行くのではなく、「晴明」が、その死後も「平安京」の平安を恒久に願い、現在を以ても「神」として鎮座されているという「晴明神社」が創建された深くてありがたい本来の意味をよく理解して、日々の感謝の気持ちを抱いてお参りしてほしいものですね。

 そうすれば、想像以上御利益が得られると思います。
 

 いや、実際に!

 いるんですよ、過去実際に御利益を得た方が。


 次回は、「安倍晴明」のもたらした御利益によって実際に「巨万の富と名声」を得た一族のお話をするつもりです。

楽しみにしておいてください。(^^)/


 ちなみに「晴明神社」へは、京都市営バス自家用車でないと行けません。

 地下鉄ですと、最寄りの駅今出川駅となりますが、ここからだとガッツリ30分は歩かないとダメですので、市バスにしといた方が賢明です。

 市バスは、JR京都駅からは9番で「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩3分くらい、阪急だと四条烏丸駅、地下鉄四条駅より12番「一条戻橋・晴明神社前」。
 
 京阪電車三条駅から市バスの12番、59 番」「堀川今出川下車になります。

 自家用車は、神社の隣「コインパーキング」があります。20分100円でお安いですが、空いているところを見たことがないので、注意が必要ですよ。
スポンサーサイト



本当に癒される京都のパワースポット研究⑰仏の結界編~上賀茂神社に迫る番外編①~

 皆様ご無沙汰しております。

 年末の忙しい時に、愛車とパソコンの両方が一気にブッ壊れてしまい、取りあえず新しい車の購入に予算を取られ、パソコンは後回しに…
以来なかなか更新ができませんでした。

しばらくタブレットでやり過ごしていたものの、ブログのアップにまでは事足りず、先日やっと貧乏サラリーマンの予算が見合うパソコンが見つかったので、購入に踏み込みました。これで、何とかブログの更新ができそうです。

2014御来光③

非常に遅くなりましたが、比叡山から見たご来光です。元日は終日曇天でしたが、雲の切れ間から一瞬だけ拝することができました

 さて、前回のパワースポット研究では、京都における最古にしてもっとも格式の高い上賀茂・下鴨両神社と、私の提唱する「仏の三角結界」との関連性について検証しました。

古代の日本において「祭り」代名詞だった両神社の最重要例祭「葵祭」

とりわけその「葵祭」の中でも両神社の主祭神「賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)」が「生まれ変わる神事」と云われ、神事の中でも最も重要である「「ミアレ(下社は御蔭)の神事」を執り行う両神社の「ミアレ(御蔭)場」と、「仏の三角結界」のラインが奇妙にも一致することを突き止め、地図と照らし合わせて実証しましたね。


 その関連性を解き明かそうと、その後も足しげく図書館へ通い、色々な文献を読み漁りました。その結果、賀茂(鴨)一族についての重要な事実を探し当てたんです。


何とこの上・下両神社の主祭神を一族の祖と仰ぐ賀茂(鴨)一族は、平安時代、朝廷において暦を始め占術や呪術を司る役職「陰陽師」宗家だったんです。

 「陰陽師」は、夢枕獏氏原作の『陰陽師』の中で、安倍晴明呪術手下の鬼たちを使い、妖怪たちと対峙していく姿が一躍脚光を浴びたので、皆さんもよくご存じでしょう。

数年前には狂言師野村萬斎さんの主演で映画化されて大ヒットを飛ばし、一躍日本に「陰陽師」ブーム「安倍晴明」ブームを引き起こしましたね。

 昨今の京都観光では、この「陰陽師」不思議なパワーにあやかりたいと京都を訪れる方々が後を絶たちません。私もたまに「安倍晴明」の屋敷跡と伝わる「晴明神社」を訪れますが、いつも凄い人気です。


IMG_2344.jpg
陰陽師ブームで参詣者の絶えない清明神社


以前友人から、このパワースポット研究で「ぜひ安倍晴明のことを取り上げてほしい」とのリクエストを受けていたので、暇を見計らって「晴明神社」を調べていたのですが、ひょんな所から安倍晴明がこの賀茂(鴨)一族「仏の結界」重要な役割を果たしていることがわかってきました。皆さんも非常に興味をお持ちでしょうし、ネタも揃えたので公表したいのですが…

しかし…

 その前に、きっちりと賀茂(鴨)一族と「仏の結界」との関連性を総括しておかなければ、「京都に張り巡らされた結界」について前に進めません。


よって、今回のパワースポット研究は、「仏の結界編⑰上賀茂神社に迫る番外編」として、賀茂(鴨)一族「陰陽師」、はたまた「修験道」の関係についてお話ししたいと思います。

安倍晴明については、この話が落ち着いたらゆっくりと検証させていただきたいと思いますので、もう少し時間をくださいね。(^_-)



さて、「安倍晴明」の大ヒットのおかげで日本中知らない人がいないくらい有名になった「陰陽師」。

この「陰陽道」の日本における宗家、いわゆる総本家というのは安倍晴明ではなく、何を隠そうこの賀茂(鴨)一族なのです。


そもそも「陰陽師」が使いこなす「陰陽道」とは、一体何なのか?
魑魅魍魎都を跋扈するとても摩訶不思議なイメージが付きまといますね。


 本来「陰陽道」とは、5世紀から6世紀頃中国から仏教儒教とともに日本に伝わった「陰陽五行説」が始まりと云われており、その歴史は非常に古く、元々は天文暦数時刻といった自然の観察に関わる普通の一般的な学問でした。


それが時代を経て、自然界瑞祥災厄を判断し、人間界吉凶を占う技術として日本社会独特に発達したと云われています。


陰陽道の伝来当初は、おもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶がその役職を担わっていましたが、やがて朝廷が、暦や吉兆に目をつけ、必要とし始めたことから、陰陽道の技術は国家管理独占へとはかられて行きました。


それが平安時代にもなると、宮廷を始め都の内部「怨霊」に対する御霊信仰が興り始め、一気にブレイクしました。


その機会に陰陽道占術呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の生活に影響を与えるようになったそうです。


よって日本の陰陽道は、中国古来「道教」の方術に由来する方違物忌、などの呪術や土地の吉凶に関する風水説医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、また、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げました。

8世紀末になると、仏教の秘法である「密教の呪法」や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受け、今私たちが知るようなスピリチュアルな存在となっていきます。


陰陽道の説明はこれくらいにしといて

 当時数いた「陰陽師」の中でも賀茂(鴨)一族が輩出した賀茂忠行(?~930年?)は、時の醍醐天皇より「天下に並ぶもの無し」といわれるほどの天才呪術者であったと云われ、先ほどの「安倍晴明」の師匠になり晴明を育てます。


つまり、中国で生まれ仏教とともに日本に伝来した陰陽道は、本来自然科学的な学問だったはずなのに、どういう訳か日本でミステリアスな独自の進化を遂げ、私たちが現在一般的に知っている日本独特の呪術を用いるような「陰陽道」となったんですね。


 そしてその独自の進化を遂げた「陰陽道」を極めた元祖が、賀茂忠行となるわけなんですね。
 
立砂
上賀茂神社細殿前にある「立砂(たてすな)」賀茂別雷神が降臨された憑代をあらわしていると云われ、このような祭祀方法は賀茂(鴨)一族独自のものと云われている


 さて話を戻しますが、賀茂(鴨)氏の一族である賀茂忠行の出現により、賀茂氏が朝廷内で、暦や地相を占う専門の役職である「陰陽師」の宗家になったということは記録にありますので明白です。


しかし、冷静に考えて、平安時代になっていきなり忠行が一代「陰陽道」極めてしまったというのは少々不自然な気がしませんか?

いかに呪術に対して非凡な才能を発揮したとしても、何らかの基本的な後ろ盾が必要だったはずです。

よって私は、「ひょっとしたら、忠行が歴史の舞台に出現するそれ以前から賀茂(鴨)一族には、すでに占術や呪術のノウハウがあったのでないか」と思うようになりました。


 調べてみたところ、賀茂(鴨)一族の発祥の地と伝わる大和葛城(奈良県御所市)地方は、山岳での修行で仙人になろうとする「修験道」(山伏とか、ホラ貝を吹いて山中で修行する行者さんのこと)の聖地で、その開祖である伝説の呪術者「役行者・小角(えんのぎょうじゃ・おづの)」(634~701年)が生まれた地としても有名です。

eoumi_006_01.jpg
滋賀県東近江市石馬寺に伝わる「役行者」と前鬼、後鬼の木像


この役行者は仙人となり、「雲に乗り、一晩で富士山まで往復し、修行した」とか、「前鬼、後鬼という鬼を手下に使っていた」という伝説が今も残っています。

驚くことに、何とこの役行者は、賀茂一族の出身なんです。


 つまり、日本で独特の進化を遂げた陰陽道において日本を代表する呪術の元祖たる2名は、賀茂(鴨)一族の出身ということなんです。


 ついでに言うと、陰陽道聖典と云われる『金烏玉兎集』を唐より持ち帰った、吉備真備(きびのまきび・695~775年)も賀茂(鴨)一族であり、『今昔物語』では、「陰陽道」の祖と云われています。

だとすれば、賀茂(鴨)一族は、平安建都以前から、すでに「陰陽道」のほかに「修験道」から発生した呪術や占術の技術を持ち、また、吉備真備ら賀茂(鴨)一族の留学生によって、唐より最先端の学問を持ち帰ることにより、陰陽道の技術のノウハウを蓄積していったとしても何ら不思議ではありません。


私は、元来賀茂一族の間で受け継がれてきた「陰陽道」「修験道」にまつわる不思議な力や才能が、特に役行者賀茂忠行には色濃く出てしまい、その結果、賀茂(鴨)一族「陰陽師」「修験道」宗家となったのかも知れないと思いました。


 話を京都の結界に戻しますが、


 重要なのは、この賀茂(鴨)一族が、中国より伝来した自然科学的「陰陽道」に、一族に伝わる呪術的何かを加えて日本独特の「陰陽道」創り上げ、その圧倒的呪術の力を用いて古代の京都(当時の山背の国)に、結界を張ったのでないかとゆうことなんです。

下の地図はいつもの自家製の見にくい地図ですが、まぁ見て下さい。

京都の結界


 不思議なことに、私が提唱する京都に張られた二つの結界下鴨神社松尾大社伏見稲荷を頂点とする「京都三大大社の三角結界」と、神護寺延暦寺極楽寺を頂点とする「仏の三角結界」重要な位置唯一重複している場所は、この賀茂(鴨)一族が奉祀する上・下両神社だけなんです。


 しかも、両方の結界とも起点となる最も重要な地点に上・下両神社は存在するわけなんです。


 まったく凄い偶然ですよね。


しかし、前回にも言わせていただきましたが、「この事実は偶然なのかもしれないですが、確かに事実なのです」

 驚きと同時に、さまざまな疑問も湧き上がってきます。そもそも結界を張る以前に、これほどの高い文化技術を持っている大豪族の賀茂(鴨)一族が、なぜ京都(山背)を始め、奈良岡山島根等の西日本の各地分散しているのか?


 もうこれは日本の歴史上最大の闇に足を踏み込まねば理解できない問題になってしまっていますよね。


 最近は、『古事記』『日本書紀』などの現代口語訳が気軽にネット上で閲覧できるうえ、意識の高いアマチュア歴史研究者の方々による質の高い、かつ、学者先生方のような思考の止まってしまった頭の固い論文ではなく、非常に柔軟な発想で研究をされ、また、その成果をネット上で発表されているので、かなり短時間で色々な方々の日本創生期へのアプローチを学ぶことができます。

 これらのサイト等を閲覧させていただくと、非常に勉強になるだけでなく、良い意味で刺激され、やる気ががぜん出てきます。


 色々な方の考えと、私の研究の結果を考えると、


「賀茂(鴨)一族は、古代日本の支配者であったが、皇室の祖である、大和朝廷に征服された王族だったのではないか?」

そして

被征服後、王族並びに関係眷属は全国にちらばり、各地に祖先を弔う神社を建立していったのではないか?

そこから考えると

「上賀茂・下鴨両神社は、征服された旧王朝の怨霊を慰めるために建立された神社ではないのか?」

ことです。

つまりいわゆる「雷神」というのは「怨霊」のことではないか。

そういえば、前々回にお話しした「上・下両御霊神社」に祀られている八柱の怨霊の内、あとから追加された二柱は「火雷」と「吉備真備」でしたね。


 ここから先は、日本史最大のミステリーに足を踏み込むことになり、かなりスペースを割いてしまいますので、次回詳しくお話ししたいと思います。

 突拍子もない話のようですが、謎を解く手がかりは、あの中国の歴史の中に連綿と受け継がれてきていたのです。

 楽しみにしておいてください。
プロフィール

やま法師

Author:やま法師
 生まれはおろか、戸籍を尋ねてみても、江戸時代の文久年間までは、とりあえず遡ることが確認できた京都(宇治郡・醍醐)人。当時の身分制度から考えるとそれ以前よりご先祖さまが、此の地に定住していたことは間違いない。
 
 生来よりのきかん坊で、自由奔放な青春を謳歌し、30代後半まで犯罪スレスレの生業で生計を立てるも、ある日奇瑞の仏縁を頂くことで、これまでの諸行を省みて仏に帰依する。

 得度授戒をしていない凡夫、いわゆる一般人のなかでは、日本仏教の母山である比叡山延暦寺に一番近い立場の人間となれたことへ報恩感謝し、その証として、ブログを通じてリアルな比叡山の情報を発信して行きたい。

 また、職権を利用することで、昨今よく目にする京都の観光情報のみを紹介するブログとは一線を画した、歴史的かつ、宗教的な側面を踏まえ、本物の「心の癒し」を目的とした京都並びに周辺の観光情報を紹介して行きたい。

 その一方、趣味のロードバイクを駆使することで、大好物のラーメンを始めとしたB級グルメ等を細やかに発信し、全国より京都へ訪れてくれた方々への一助となりたい。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスしてくれた方々
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR