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本当に癒される京都のパワースポット研究⑯仏の結界編~上賀茂茂神社に迫る(後編)~

 今年も早いもので、あともう数日を切ってしまいました。
皆様には今年一年このブログを通して色々とお世話になり、ありがとうございました。よい正月をお迎えください。

 私は、年末年始とお山に籠り、毎年ながら各種法要の撮影に追われるお正月になりそうです。

 このブログをご覧の皆様もぜひ「神と仏のおわす霊峰比叡」にご参拝ください。特に大晦日年越しの「修正会の鬼追い」などは圧巻です。寒さも吹き飛びますよ。

鬼追い
大晦日の年越し、根本中堂前において行われる「鬼追い」の様子

 さて、前回のパワースポット研究では、ついに京都最大のミステリーの一つである上賀茂・下鴨両神社成り立ちに踏み込んでみた訳ですが、結局冒頭の部分に触れたくらいの説明で終わってしまい、両神社と「仏の結界」まで紹介することはできませんでしたね。

 そこで、今回こそは両神社の存在がいかに「仏の結界」を形成する上で重要な役割を果たし、また平安の都の北方の結界として大きな影響を及ぼしてきたかを検証していきたいと思います。



 私は以前から平安京には平安新仏教の頭脳集団により結界が張られていると提唱しているわけですが、結界の中でも特に神護寺~比叡山延暦寺へと続く北方のラインは最初に引かれた最も重要なラインだと常から思っていました。

 何せ、この北方のラインには、下の図のように神護寺から比叡山の間に、前回でも述べました上賀茂神社「御阿礼場(ミアレ場)」下鴨神社における「御蔭場(みかげば)」を見事に通過しているからです。
ミアレ三角

さらに拡大

ミアレ直線


 
 何たる偶然!

 と、思いませんか?

 古代山代の国を代表する大豪族「賀茂(鴨)氏」の始祖をお祀りする両神社の、主祭神が降臨された場所と伝わる最も神聖なる地が、両神社とも仏の結界上に存在しているんです。

 時間軸の概念で考えれば両神社の聖地の方が「仏の結界」以前より存在しています。これぞまさしく神様と仏さま「奇瑞の勝縁」と言えるのではないでしょうか。

 ないしは、後世の最澄さま空海さんを始めとする平安新仏教の頭脳集団がこの地勢の事実を活用「結界」を張られたのか?

 空想がどんどん膨らんでいきます。


オッと!


 私一人が興奮してないで、ブログを読まれている方にもわかるように説明しなければいけないですよね。



 上賀茂・下鴨神社の成り立ち等については過去のパワースポット研究をもう一度読んでもらうとして、
この両神社では、毎年5月15日に例祭として「葵祭」が開催されます。

葵祭り

葵祭の様子

 「葵祭」とは、京都三大祭にとどまらず、祭に際して天皇から直接使者(勅使・ちょくし)が遣わされる日本三大勅祭としても有名で、京都の伝統的風物詩としてご存じの方も多いことと思います。

 ちなみに昔の日本では、「神宮」と言えば伊勢神宮「山」と言えば比叡山、そして「まつり」と言えば、「祇園祭」ではなく「葵祭」を指す言葉でした。

 祭の起源は、欽明天皇の567年、風雨がはげしかったため五穀が実らず、伊吉の若日子が原因を占ったところ、「賀茂の神々の祟りである」という結果がでたことにあるそうです。

 そこで若日子は勅命をおおせつかい、4月の吉日に賀茂神社にて祭礼を行ったそうで、馬には鈴をかけ、人は農耕の神様を意味する猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしました。そうしたところ風雨はおさまり、五穀は豊かに実って民の生活も安泰になったとそうです。

 その時「賀茂の大神」は、「私に会いたかったらいつでもこの場所で、駆競をしなさい」と告げられたそうで、それ以来毎年旧暦の4月の酉の日に例祭として行われるようになったそうです。

 その後819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になり、現在に至るという非常に長い歴史を持つ伝統的な祭事です。

 この例祭のなかで最も重要な神事のひとつが、上社の「御阿礼(ミアレ)の儀」と下社の「御蔭(ミカゲ)の儀」で、共に15日の「葵祭」の当日に向け、3日前の12日に神様の新たな魂を地上にお迎えするという「神さまの生まれ変わりの」神事です。

 下社は、12日の日中、主祭神「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と、その娘神「鴨玉依姫命(かもたまよりひめみこ)」が、葛城の地を後に鴨川をさかのぼり、辿り着いた山代の地で、玉依姫が賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を産み落とした場所、京都市左京区八瀬の「御蔭神社」で、執り行います。

御蔭
下社「御蔭の神事」が執り行われる御蔭神社

 また、上社の場合、主祭神「賀茂別雷命」が降臨されたと伝わる円山の麓にある「御阿礼場」において同じく12日の深夜「御阿礼の儀」を執り行います。

 下社は「御蔭場」を別雷命が「生まれた場所」としているのにも関わらず、上社は「御阿礼場」を「降臨した場所」と断定している事にかなりの「ちぐはぐ感」を感じ、「やっぱり上・下両社の神様は親子ではないんやろうなぁ」などと思いを巡らすのですが、このお話を突き止めて行くと、再び「賀茂(鴨)氏の迷路」から抜け出せなくなってしまいますので、また別の機会におはなししようと思います。


 上社の御阿礼場は、上賀茂神社の本殿より北に数百メートルの所にあり、現在は「京都ゴルフ倶楽部上賀茂コースの17番ティーグラウンド」付近にあります。
ミアレ
ゴルフ場内のため、写真が撮れません。地図でかんにんしてください

 何でゴルフ場の中?

 と思われるでしょう。


 これは、敗戦後京都にやってきた米国進駐軍が、「軍人のレクレーションのためにゴルフ場を作りたい」との要望で、第一軍団軍政官少佐ハロルド・シェフィールドが中心となって造営されたものだそうです。

 表向きには、京都市内で、自然を楽しむための「原生林」と「池」が二つあるという理由から上賀茂神社の神域が選ばれたそうです。

 神域を穢す行為として周囲の人々は猛反対をしたらしいのですが、結局のところは敗戦国の悲しさ。 占領軍に押し切られてしまったらしいです。まさしく「鬼畜米英」の所業。神をも畏れぬ行為ですね。

 しかしこんな所にも戦争の傷跡が残っており、経済活動のために問題を放置してあるとは、なんとなく心が痛いですよね。

「ミアレ」の神事についてですが、門外不出の神事のため、一切公開はされておりません。
まあ、畏れ多くて覗こうとも思いませんけどね。


 さて、下社の御蔭場の件ですが、これが難儀しました。

 なんせ現在御蔭の神事が執り行われている「御蔭神社」は、「仏の結界」のラインより若干南に位置するからです。

 当初は、「あ~ズレてるなぁ」くらいの認識で、そんなに気にはしてなかったんですけどね。

 その後上賀茂神社前編の原稿草案のため資料を集めている時に、京都産業大学教授所功先生がお書きになられた『京都の三大祭』を見つけ、かなり参考にさせていただいたのですが、その中で、下社「御蔭場」古地図が掲載されていたんですよ。
 

 その地図を一目見ると…

 全然現在と違うんですよ。

img009.jpg
『京の葵祭展』 p67 京都文化博物館2003に記載されている旧地御蔭社の図面
当時御蔭場は、八瀬大河(高野川)、谷川、御生川に囲まれた御蔭山(御生山)という単立峰の川中島だったことが覗えます


 平安時代の御蔭場は、地形も場所も全然現在の御蔭神社とは違うんです。

 たしかに下の図のように、現在の京福電鉄八瀬駅付近の地図を見つめると、駅付近の地形がかなり不自然ですよね。

湾曲
京福電鉄八瀬駅付近の現在図

 高野川の流れが「ゴボッ」と、この地点だけ明らかに不自然に湾曲していませんか。


 不思議に思い調べてみると、

 やっぱりありました。


 下鴨神社の宮司である新木直人氏の『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』によると、この場所は宝暦8年(1758)8月22日に長雨のためにおこった土砂崩れで、神社東側が土石流で埋もれてしまったそうです。  

 また、文政13年(1830)には、大地震により比叡山の西峰が大きく崩壊し、そのため高野川の流れが完全にかわってしまい社殿が完全に流損したそうなんです。
 
 そのため天保5年(1834)に現在の新社地社殿を上棟し、御蔭山城の跡御蔭神社として再建したそうです。

DSC_0564.jpg
御蔭神社から山中に登ると、山城であった石垣跡が今も残っている


 つまり、現在の御蔭場は南に移動している訳なんですね。


そうなると、話は変わって来ます。早速新木氏の説をもとに旧社殿の跡地を検証してみました。


高野川の流れと、先の古地図から想像すると…

御蔭
平安時代の高野川の流れと、旧御蔭場の想像図


するとどうでしょう、ほぼピッタリと「仏の結界」当てはまってしまいました


 なぜか涙が止まりません。

 頭の中を、当代きっての芸術家、棟方志功氏の言葉がよぎります。

 氏は、仏教彫刻を得意とし、その芸術性を「仏さまを彫っているのではなく木の中に埋もれておられる仏様さまを見つけ出し掘り起こしているだけ」と、述べたそうです。

 つまり「自らの意思ではなく、仏の意志に従っているだけ」ということらしいです。

 わたしも今まったく同じ感覚なのです。

 「仏の三角形」を形成する最後の一点「極楽寺」の時も、「当てずっぽう」で線を引くと、そこに平安寺院代表するような大伽藍が存在しており、日本の仏教界を変えるような大宗教家大いなる礎となった寺院が建立されていました。

 また、大文字山から神護寺にかけて引かれた「仏の結界」の中心線上には、足利将軍家繁栄のために築かれた大伽藍が三寺院も建立されていました

 これだけ偶然とはいえない数々の事実が重なると、
私が「仏の結界」を提唱しているのではなく、神さまや仏さまのご意志で、私が「掘り起こして」いる感覚にとらわれてくるのです。

 なにか「大きな意志」に触れることができたようなそんな感動を覚えます。

 話を戻します。

 つまり

 京都のみならず、日本を代表する、上賀茂神社下鴨神社両神社最も神聖なる地は仏の結界上に存在するのです。

 偶然かもしれません。

 しかし事実なんです。

この事実をもとに結界が張られたのかも知れません。

 いずれお話しますが、私は室町幕府を興した足利将軍家の衰退は、十代将軍足利義稙により「仏の結界」が放棄されたからだと思っています。

 この事例もとに時代考証すると、天皇が東京に出向かれるきっかけとなった「明治維新」の始まりは、御蔭神社を山中に移した頃と重なってきます

高野川
湾曲した高野川の流れから御蔭山(写真中央)、その背後には比叡山がそびえる

もしかしてだけど…
(もしかしてだけど)

「結界を動かしてしまったことで、悠久の平安の都が平安でなくなるきっかけになったのかも知れないんじゃないの?」

と歌いだしたくなりますね。

 
 下賀茂神社の御蔭場である御蔭神社へは、京福電鉄「八瀬比叡山口」まで電車で行き、到着後歩いて10分ほどの場所にあります。
 まぁ車で訪れても、少々ならば駐禁を切られることはないと思いますが。

 めったに人も来ない寂しい場所ですが、鴨一族が山代の地に辿り着いた悠久のロマンを感じるには最高の場所だと思いますよ。

 上賀茂神社の御阿礼場は、先ほども申しました通り、京都ゴルフ倶楽部の敷地内となりますので、ゴルファー以外には立ち入ることはできません。もしプレイに訪れた時には、一礼をして通りたいものですね。

上賀茂神社「御阿礼場」
 
大きな地図で見る

下鴨神社「御蔭神社」


大きな地図で見る
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本当に癒される京都のパワースポット研究⑮仏の結果編~上賀茂神社に迫る(前編)~

 皆さんしばらくご無沙汰しておりました。

 何とか先日までに今年分の仕事を仕上げて(私の仕事は、11月、12月の間に来年1月分の仕事もしてしますのでこの時期は1年で一番大変な時なんです)やっと落ち着きました。

 とにかく、これでようやく、春までパワースポットの研究に没頭することができそうです。


 さて、前回までのパワースポット研究で、平安京には、朝廷(皇室)の万世の反映を祈願するため平安新仏教の頭脳集団が張り巡らせた、高尾山神護寺比叡山延暦寺極楽寺跡(宝塔寺周辺)をそれぞれ三角形の頂点とする結界『仏の結界』の存在を明らかにしました。

 また、幾人もの野心に満ちた権力者がその結界を利用し、また足利将軍家が大文字山から神護寺にかけて引かれた『仏の結界』の中心線を利用、活用することで室町幕府の栄華を極め、ついには天皇の位すら手に入れようとした事例も説明しました。

 そこで今回は、京都最古にして最大のミステリーといっても過言ではない、上賀茂神社(賀茂別雷神社・かもわけいかづちじんじゃ)と、その例大祭で、京都における「祭り」代名詞である「葵祭」

 この二つと「仏の結界」との関係を研究するという歴史マニア垂涎の世界に足を踏み込んでみようと思います。

IMG_3185.jpg
京都最大のミステリーが潜む上賀茂神社の楼門

 
早速踏み入れてみました。
 
 が、しかし…

 いざこの問題に踏み込んではみたものの、流石に京都の歴史史上最大のミステリーだけあって、突き止めても、突き止めても奥が深すぎて底が見えません。

 どうも、完全に迷路にはまり、首が抜けなくなってしまったみたいです。

 色々な専門的文献を閲覧し、暇を見計らって現地の調査に挑んだのですが、何せこのテーマを深く掘り下げていくと、『古事記』に見える、神武天皇の東征にまで遡り、その後の渡来系氏族秦氏による山代の国の造営、また山代の国「幻の豪族」出雲氏下鴨神社との関係までと、このお話だけでそこいらの歴史学の論文が一冊かけてしまう内容となってしまいそうです。

 私としては、この分野を解き明かすことに今後の半生をかけて行くつもりなので、徹底的に調査して一つひとつを徹底的に検証し、解明していきたいのですが、それをすると「心を癒し、お山(比叡山)素晴らしさを伝える」という今ブログのテーマから離れてしまい、「熱い歴史研究マニア」のブログになってしまう可能性が大きいので、徹底的な研究は並行して行うということにして、あえて結論には今のところ踏み込まず、何より「パワースポット」に重きを置いて、「仏の結界」上賀茂神社との関係を紹介していきたいと思います。


 上賀茂神社の正式名称は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と云われております。

 神社の正式名称のなかに見える別雷(わけいかずち)とは、この神社に祀られている主祭神賀茂別雷大神(かものわけいかずちのおおかみ)という神様を指しています。

鳥居
神域との境界線である鳥居をくぐり、賀茂の大神のパワーを頂く

 この神様は、私が提唱する京都のパワースポット研究の記念すべき第1回を飾った下鴨神社(賀茂御祖神社・かもみおやじんじゃ)の主祭神「賀茂建角身命」(かもたけつぬみ)の孫であり、その娘である「鴨玉依姫命」(かもたまよりひめみこ)が、川に流れてきた丹塗矢(にぬりや)を拾い、家に持ち帰ったところ懐妊し、出産をして生まれたと云われています。

 常から父親が誰か疑問に思っていた祖父の建角身命は、別雷の成人を祝う祝宴の席で、「お前の父は誰か知っているのか?わかっているならその者に酒を与えよ」と、別雷に言いました。それを聞いた別雷は「私の父は、乙訓の国の乙訓神社(現、京都府向日市向日神社)の主祭神の火雷神(ほのいかづちのかみ)だ!」と言い、屋根を突き破って天に向かい飛んで行ったそうです。

 この父神である「火雷神」とは、日本の神話国母神である「イザナミ」が、その夫「イザナギ」によって黄泉(死者)の国で発見された時、腐敗してウジだらけになっていたイザナミの体より発生した八柱の雷神の一つと云われています。

 この火雷神は、古くから「雷が多い年は豊作になる」(実際にマイナスイオンなんちゃらで作物はよく育つらしい)と伝わっていたそうで、雷の持つ大いなる自然の力から農耕の神様として崇められたそうです。
 
と、上記のお話が、上賀茂神社に伝わる『山城国風土記』に記された縁起で、一般的に上賀茂神社の起こった伝承とされているのです。

 しかし、当時山代の国を「賀茂氏」と二分して治めた「秦氏」が、奈良時代後期に著した『秦氏本系帳(はたうじ・ほんけいちょう)』の中では、別雷の母の「鴨玉依姫命」が拾った丹塗矢の正体は「火雷神」ではなく、秦氏先祖神である「大山咋神(おおやまくいのかみ)」であり、秦氏の祖神の子供を生んだことによって秦氏と賀茂の両氏は身内になり、秦氏の聟(おむこさん)になったから、賀茂両社の祭り事を「賀茂氏」に譲ったと記されています。

 つまり「秦氏」の伝承では、別雷大山咋神玉依姫の間の子供だということになってるんですね。

IMG_3171.jpg
上賀茂神社の拝殿 本殿は再来年の式年遷宮にむけ、只今準備中である


 また、『出雲国風土記』の中には、かつて日本最大の建築であった出雲大社に祀られている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)と、スサノオの娘との子供である「阿遅鉏高日子根神」(あじすきたかひこね)、別名「迦毛大御神」(かものおおみかみ)が、出雲より大和に移住した鴨氏により大和の国葛城にある加茂社に祀られているとの記述があります。

出雲大社②
古代の日本で最大の建築物であった出雲大社

 一方『古事記』の中には、賀茂氏の先祖は、大物主命(おおものぬしのみこと・大国主命の和魂(にきたま)。神様は荒魂と和魂という二面の側面を持ち、和魂とは、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面で、神の加護は和魂の表れと云われている)と、活玉依比売との間に生まれた、「おおたたねこ」であると云われ大阪府八尾市あたりから葛城の地にやってきたともあります。

高鴨
大和葛城(現在の奈良県御所市)に鎮座される、賀茂(鴨)氏の総本社 高鴨神社


 他方で、「賀茂建角身命」は、神武天皇の東征の道案内を務めた功により(詳しいことは『パワースポット研究①下鴨神社編』を読み直して下さい)大和葛城の地を拝領し、その地を治めたとあります。その後新たな地を求めて木津川から、鴨川と遡上し、下鴨神社鎮座したとあるので、この「アジスキタカヒコネ」の神様が何らかの形で「加茂別雷命」と名前を変えて祀られているのではないか?とも云われております。


 このように、上賀茂神社の主祭神「賀茂別雷大神」には、日本を代表する「三大勅祭」である「葵祭」を奉祭する日本屈指の大社でありながら、その成り立ちには謎が多すぎる神社なのです。

 そもそも、この縁起を読んで不思議なところは、「どうして上賀茂神社下鴨神社は親子三大にわたる親子神なのに、名称を変えてまで、二つの神社に分けてお祀りする必要があるの?」という所。普通の人はそう思ってしまいませんか。


 確かに同じ神様を上社と下社や、奥社というふうに分けて祀ることはあります。しかしそれは山頂に祠や御神体が祀られる等、参詣に不便な場合に限られています。それを京都盆地内の交通の便が良い所であり、しかも完全に違う名称で祀っています。

 しかも「葵祭」では、神様が地上に降臨され新しい魂に生まれ変わられる最重要神事である「ミアレ」の神事でさえも、上社は本殿近くの「御阿礼場」で、下社は京都市左京区八瀬の「御影場」でと、全く別々の場所で執り行います。
親子なのに…

 何かめちゃめちゃ不自然ではないですか?


 このような神社は他に例をみません。まるで無関係神社のようです。


 私は、子供の頃からなぜこの両神社は二つに分かれているのか不思議でした。

IMG_3200.jpg
上賀茂神社の神座(かむくら)と崇められる「神山」 2㎞ほど北方にあり、駐車場からその美しい姿が伺える


 京都産業大学の教授で、TV等でもご高名な所功先生の著書『京都の三大祭』によれば、賀茂氏には、元々から山代の地に住む「山代賀茂氏」と『古事記』に記述のある大和葛城から北上してきた「葛城鴨氏」の二つの「賀茂(鴨)」氏が存在し、それぞれが「アマテラス系(天神)」「オオクニヌシ系(地神)」という、違う系統の神様を崇拝していたらしいです。

 時代を経ていつの間にか同化したこの賀茂(鴨)氏ですが、上下両社においては、神社の実務を執り行う「禰宜」職に葛城鴨氏、神様と人間をつなぐ「ハフリ」の職には山代賀茂氏が代々世襲したそうです。


 何となくこじんまりとまとまった感のある説ですが、この説で上下両社の神様を説明した場合、両社の関係は別に「親子」「祖父と孫」の関係でなくてもいいですよね。

 そもそも別系統の神様を祀る別の氏族である山代、加茂の両賀茂(鴨)氏が、神様を親子にして祀っているのも何か腑に落ちませんし、それにもし両賀茂(鴨)氏同族なら一箇所に合祀しても問題ないですよね。

 実際、上賀茂神社の本殿脇の摂社には、母である「玉依姫」は祀られているのですが、祖父の「建角身」は、その痕跡すらありません。(どんなけジイさん嫌われてるねん)って感じです。

IMG_3195.jpg
本殿楼門の脇に鎮座される母神「鴨玉依姫」を祀る片岡社



 とにかく、知れば知るほど不思議な神社です。そして調べれば調べるほどどんどん深みにはまってしまいます。

「こんな形態の神社、地方ならともかく、大社クラス神社にはないだろうな」と思い、同じような神社を探してみました。

すると早速…

見つけましたよ


 京都一箇所だけ上下社違う場所で祀られている神社がありました。
 
 その場所とは、上・下御霊神社(かみ・しもごりょうじんじゃ)で、上社は京都市上京区上御霊前通烏丸にあり、下社は京都府京都市中京区寺町通丸太町にあります。

神御霊
京都市上京区に鎮座される上御霊神社


 そしてお祀りされているのは、両社とも同じ神様六柱で、

崇道天皇 早良親王(さわらしんのう・光仁天皇の皇子)

井上大皇后 (いがみたいこうごう・光仁天皇の皇后)

他戸親王 (おさべしんのう・光仁天皇の皇子)

藤原大夫人 藤原吉子(ふじわらのよしこ・桓武天皇皇子伊予親王の母)

橘大夫 (橘逸勢・たちばなのはやなり)

文大夫 (文屋宮田麿・ふんやのみやたまろ)

また、後世になってから

火雷神 (ほのいかづちのかみ)以上六柱の荒魂

吉備大臣 (吉備真備・きびのまきび)

の二柱が追加されたことになっています。

 この神社にお祀りされている六柱の神様は、全て桓武天皇皇太子となるための政争に巻き込まれたり、都を長岡京から平安京遷都するきっかけとなった「藤原種継暗殺事件」の関係者とされた人々の「怨霊」です。

 つまり、上下両御霊神社は憤死して、怨霊となった人々を朝廷が慰め鎮めるために作られた鎮魂の神社なのです。ちなみに今でも京都の神社や社で「六」とつくところは全てこの六柱をお祀りされています。

IMG_3701.jpg
比叡山の荒行「千日回峰行」では、京都切廻りと大廻りの際、必ず上御霊に立ち寄り八御柱に祈りを捧げる。
写真は、平成25年の京都切廻りの様子  


 この六柱の怨霊神のことは、ひとまず置いといて、私は非常に大事なことに気づきました。


 この上下御霊神社には、六柱の怨霊神に追加して両神社とも「火雷神」が祀られているということです。

 火雷神といえば、上賀茂神社の賀茂別雷大神父神のことですよね。


 両神社側はこの「火雷神」は先の六柱の「荒魂」(神様には、人々を見守る静かで温かい一面と、怒りに満ちた荒々しい一面を持っていると云われ、祟りがあるような荒々しい側面を荒魂といいます)と、解釈していますが、私はそれは違うと思うのです。


 だって怨霊に静かも荒々しいもないでしょう。人や世の中をさんざん恨んで怨霊になってしまったのですから。


 つまり、私は別雷の父神「火雷神」は、その昔、朝廷との政争に巻き込まれ憤死した誰かの「怨霊」ではなかったのではないかということなんです。
「時代が違うやん!」といわれそうですが、そのために時代の違う二柱を後から追加しているのですよね。吉備真備も奈良時代の人ですし。

ちなみに、日本有数の「怨霊」である菅原道真も北野天満宮に「雷神」としてお祀りされていますし、そもそも火雷神の出生自体が黄泉の国の生まれですから、やはり「穢れ」の神の側面も持っているのでしょう。

 では、京都で上下社に分かれてお祀りされている上に、祭神に「火雷神」が見える。ということは、上下両賀茂神社は平安京建都以前の山代の国怨霊鎮魂神社か?

 ちょっと結論が早すぎますよね。確信を得るにはまだまだ検証が必要ですね。引き続き調査していきます。


 だとすれば…

 再び上下二社に別れて祀られる神社を探しました。

 探し始めると、同じような形態を取っている神社が日本にもう一つあるのです。

 しかも、格式の高い神社から探し始めたので、コーヒーを飲む間もなく見つかってしまいました。


 何とそれは、伊勢「神宮」における「内宮」「外宮」の関係に非常に似ていたんです。

伊勢神宮
すべての日本人の心の拠り所「神宮」 本年式年遷宮を迎えました

 外宮は、内宮の身の回りのお世話をするためにお祀りされているそうで、その上神様が血縁ではないのですが(一説にあるように、内宮が卑弥呼、外宮がトヨ(壱与)と考えれば別ですが)、同一の神宮を二つに分けてお祀りしているのは、賀茂上下両社とよく似ているのではないでしょうか。


 地方の一神社を「神宮」と同格にするのは無礼ではないか!


 と、お叱りを受けるかもしれませんが、例えにしたのにはそれなりの理由があるんです。


 それはですね…


 もし別雷が先ほど出てきた「アジスキタカヒコネ」の神様だと仮定するとすれば、どうでしょう。

 この神様の別名である「迦毛大御神」の名前の中には、「大御神」(おおみかみ)という尊称が使用されているのです。
この「おおみかみ」という尊称は、日本歴史学の最古にして最重要資料である『古事記』の中に登場する八百万(やおよろず)の全ての神様のなかで、「アマテラスオオミカミ」「カモノオオミノカミ」の二柱でしか使われていない最高位の尊称つまり「神の中の神」を意味しているのです。


 まさに「キング・オブ・ゴッド」


 つまり、一つの神社を二社に分けて奉祀するというのは、怨霊最高位神様のみに許された祭祀方法ではなかったのでしょうか。

 となれば、これほどまでに朝廷が厚く庇護した理由も理解できますよね。何せ日本「神宮」という言葉は伊勢神宮を意味し、「祭」という言葉は唯一「葵祭」のことを指すのですから。


 つまり、この事柄から私の説を突き止めていくと、伊勢の「神宮」上賀茂神社は、もともとは同等の格式を持つ日本最高位「神のおわす社」であったのですが、何かの政治的な力歴史の闇に隠されてしまったのではないかということです。

と、言うことはですよ。

上賀茂神社は、日本を代表する「パワースポット」として、全国各地からこぞって人々が訪れる、伊勢の「神宮」と同等、ないしはそれに近いパワーが得られるのではないかと思うのです。


 そんなことを書いているとすっかり上賀茂神社と「仏の結界」との関係についてお話が出来なくなってしまいましたね。

 実はこの上賀茂神社「仏の結界」とは、まさしく神と仏の奇跡的な勝縁のバランスを形成しているのです。

 次回は、その奇跡のバランスによりいかに平安京に神と仏の力を与えたかを検証していきたいと思います。

 この奇跡的なバランスを目の当たりにすると伊勢神宮に匹敵するほどのパワースポットだということも納得して頂けるのではないでしょうか。

 ぜひ、楽しみにしておいてください。


 さて、上賀茂神社へのアクセスですが、付近には電車は無く、バスか車でないと行くことはできません。

 バスをご利用の場合、京都駅や、地下鉄烏丸線北大路駅より市バスがでております。

 または、京阪出町柳駅より京都バスも運行しております。

 お車で行かれる場合は、名神高速道路京都南インターより約1時間。京都駅より約40分くらいです。

 神社のすぐ横には、駐車場がありますので便利ですよ。

 料金30分ごと100円なので、長時間滞在し、賀茂の神様に癒されても料金のことを気にしなくてもいいのがありがたいですね。


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プロフィール

やま法師

Author:やま法師
 生まれはおろか、戸籍を尋ねてみても、江戸時代の文久年間までは、とりあえず遡ることが確認できた京都(宇治郡・醍醐)人。当時の身分制度から考えるとそれ以前よりご先祖さまが、此の地に定住していたことは間違いない。
 
 生来よりのきかん坊で、自由奔放な青春を謳歌し、30代後半まで犯罪スレスレの生業で生計を立てるも、ある日奇瑞の仏縁を頂くことで、これまでの諸行を省みて仏に帰依する。

 得度授戒をしていない凡夫、いわゆる一般人のなかでは、日本仏教の母山である比叡山延暦寺に一番近い立場の人間となれたことへ報恩感謝し、その証として、ブログを通じてリアルな比叡山の情報を発信して行きたい。

 また、職権を利用することで、昨今よく目にする京都の観光情報のみを紹介するブログとは一線を画した、歴史的かつ、宗教的な側面を踏まえ、本物の「心の癒し」を目的とした京都並びに周辺の観光情報を紹介して行きたい。

 その一方、趣味のロードバイクを駆使することで、大好物のラーメンを始めとしたB級グルメ等を細やかに発信し、全国より京都へ訪れてくれた方々への一助となりたい。

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