本当に癒される京都のパワースポット研究⑭仏の結界編~足利義満の野望(後編)~
すっかり、京都の山々も紅葉の時期を迎え、観光シーズン本番となってきましたね。
みなさんも週末には、日々の喧騒から解き放たれようと、ほうぼうのパワースポットへとお出かけになられている頃と思います。
しかし、比叡山では折からの秋霖のためか、すでに日毎目に鮮やかな紅葉も散り始め、毎年のことながら足早に冬の到来を感じております。ほんの少しばかり仕事に追われているだけなのに、女性の心と季節の移ろいというものは、本当に早いものです。

例年より少し早く見ごろを迎えている、延暦寺東塔内にある「文秀階段」
さて、前回のパワースポット研究では、室町幕府3代将軍足利義満が、天皇の位のみならず、私の提唱する王城鎮護のパワースポット「仏の結界」を手に入れるため、結界を形成するライン上に、金閣寺を建立したという説を、金閣寺内に存在する我が比叡山が輩出した、日本史上最強の呪術師「浄蔵」の墓をヒントに解き明かしました。
しかしそのおかげで、すっかり話の内容が浄蔵さんリスペクトになってしまい、金閣寺がこの地に建立された本当の理由について詳細な検証が出来ませんでした。
そこで、今回の本当に癒される京都のパワースポット研究⑭では、前回の続編として、金閣寺こと鹿苑寺金閣がいかなる理由でこの地に建立されたのかを検証し、また、観光シーズンを迎えた金閣寺の様子をレポートをしていきたいと思います。

金閣寺の撮影は、入場門を入ってすぐに撮影用の広場があるのですが、物凄い人ゴミのため撮影しにくいです。ですから、広場から少し歩いた所で撮影するのがベスト。上の写真のような構図で撮れますよ(^_-)
前回お話しました通り、金閣寺は、1397年(応永4年)、足利義満が西園寺家から土地を譲り受け、改築と新築によってこの地を一新し、北山山荘を造営。この山荘は、当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれ、室町幕府の政治中枢がこの地に集約され、一般的に「金閣」と呼ばれている「舎利殿」(しゃりでん)なども建立されました。
北山第は義満の死後遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)として、臨済宗相国寺派の院外塔頭として現在に至ります。
この一般的に金閣寺と云われる舎利殿は、漆(うるし)の壁に金箔を押した三階建ての三層宝形造の建物で、あまりにもの美しさのため「金閣寺」の由来となりました。
一階は初層・二階は二層・三階は三層と呼ばれ、それぞれに異なる様式を採用した特異な建築です。
初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像(ほうかんしゃかにょらいぞう)、向かって左に足利義満坐像を安置しています。
二層は書院造風(武家造)で「潮音洞」(ちょうおんどう)と称し、岩屋観音坐像と四天王像を安置しています。
三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、仏舎利を安置しています。
屋根は椹(さわら)の薄い板を重ねたこけら葺で、頂上には金銅製の鳳凰が飾られている。なお、金箔は二層および三層に貼られています。

舎利殿をじっくり見てみると、一層づつ建築様式が異なることがわかります。
金閣寺は、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)しました。国宝金閣(舎利殿)は全焼し、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失しました。
犯人は、寺の裏山で自殺を図りましたが一命を取り留めました。しかし彼の母親は、事情聴取のために京都に呼ばれた帰りに保津峡で、息子がおこしてしまった事件の責任を取り、投身自殺してしまいました。
とても悲しい事件ですね。
この事件は、三島由紀夫の小説『金閣寺』や、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっており、小説の中では、金閣寺の美しさに魅了され、狂わされた犯人の心中が鋭く描写されています。
なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は、1999年(平成11年)に京都市指定文化財に指定されました。
と、金閣寺の説明をさせていただきましたが、この舎利殿、日本に数ある建築物の中でも唯一と言ってもいいほど変わった建築物なんです。
どう変わっているかと言うと、この三階建ての建物、先ほども説明しました通り一階が公家の邸の代表的な建築様式である「寝殿造」でできており、2階が武家の建築様式「書院造」、3階は禅宗寺院の建築様式によく見られる「仏殿造」となっています。
ここまで読んで行くと、私のブログをよく読んでいただいているかたなら「ピン!」と感じるものがあるとおもいます。
わからない方は前々回のブログを読み返して欲しいのですが…
何と、この舎利殿(金閣寺)は義満による「公家」(朝廷)、「武家」、「仏教」を制したという証をデザインしたシンボルマークの建物なんですね。
この考え方は、これも前々回に紹介した作家の井沢元彦氏の書かれた『天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー 』(小学館文庫)の中で、語られているのですが、私はこの本を読んだ当時、正直にわかにはこの説が信じられませんでした。
しかし、「仏の結界」の存在を知ってしまった今では、義満に関し、全ての面で井沢氏が提唱する説と同調してしまう訳なんです。
と、同時に「仏の結界」の存在が世に出ることで、井沢氏の説が正しかったとの証明もしていることにもなるので、私の説と井沢氏の説は互いに正しいことを証明し合っていることになりますね。
つまり将軍(武士のトップ)であり、太政大臣(公家のトップ)であり、法皇(僧侶のトップ)であった足利義満は、「朝廷」、「武家」、「仏教」の権力と、を手に入れたことを証明するために、「仏の結界」のライン上にあった、西園寺と曼殊院門跡の土地を強制的に手に入れ、北山殿の舎利殿(金閣寺)を建立した訳なんです。
そして、「仏の結界」の三角形の中心を走るライン上に、金閣寺、相国寺を建立することによって足利将軍家の「万世にわたる子孫の繁栄」をも手に入れ、そのシンボルタワーとして「相国寺七重塔」の建立した訳です。

見事なまでに「仏の結界」の神護寺から大文字山までの中心を通るライン上に建立された
金閣寺、相国寺七重の塔、銀閣寺
何というエネルギーでしょうか。とにかく凄い野心です。(๑≧౪≦)
井沢氏によれば、天皇の位を手に入れようとしたため暗殺されたそうですが、あと数年義満が生きながらえていれば、日本の歴史はガラッと変わっていたかもしれないですね。
義満暗殺後、その意志は孫にあたる足利義政が受け継ぎ、大文字山の麓にあった浄土院の境内を接収し、慈照寺(銀閣)を建立。見事に平安新仏教の集団が張り巡らせた「仏の結界」の神護寺から大文字山までのラインを手中に治めた訳なんですね。
しかし「おごれるものは久しからず」、1467年に勃発した「応仁の乱」を皮切りに、かつて全てのものを手に入れた室町幕府は、衰退の一歩を辿って行くことになります。
足利将軍家も、10代の将軍にもわたり時代が下がって来ると、義満が血眼になって復活を試みた「仏の結界」も歴史の渦の中に忘れ去られてしまいます。
13代将軍足利義輝(あしかがよしてる1536~1565年)の治世、あることをきっかけに「仏の結界」は決定的に放棄されてしまします。
その後、『穴太記』において「天下を治むべき器用有」と政治的手腕を評され、武術においても誉れ高かった義輝は、地に落ちてしまった将軍の権威を諸大名から取り戻そうとしましたが、時はすでに戦国時代をむかえており、戦国大名である松永久秀と三好三人衆により暗殺されてしましました。
この室町幕府の滅亡を決定付けた「仏の結界」の放棄は、詳しく説明すると、また話が長くなるうえ、順序を追って説明しなければ話が「ちんぷんかんぷん」になってしまいますので、また追々「仏の結界」の〆で紹介するつもりです。楽しみにしといてくださいね。

金閣寺の総門 壁にはやはり5本線の「定規筋」が引かれる。
さて、金閣寺へは、自家用車かバスでしかいくことができません。駐車場は金閣寺専用駐車場が参道のすぐ近くにあり、また第二駐車場まで完備しているのでよっぽどのことがない限りは駐車できると思います。
駐車料金は最初の1時間が300円。以降30分ごとに150円の追加となります。
参拝は、はっきりいって「舎利殿」しか見るものがないうえ、寺院というよりはやはり「別荘」という意味合いの強い場所なので、1時間も廻れば十分やと思います。「ご利益を期待して…」訪れる場所ではないですね(^_^;)

境内で唯一お寺っぽい場所といえる「不動堂」
ただし、この場所を「仏の結界」と認識して、「浄蔵」さんのお墓を参拝するのであれば、京都でもトップクラスの「パワースポット」であることは間違いないです。
入場料は大人ひとり400円ですが、舎利殿という「世界的美術工芸品」を眺めるための見物料だと思って下さいね。
ちなみに前回お話ししました通り、「浄蔵」さんのお墓をご供養に参るだけならば入場料はかかりませんよ。
最高のプランとしては、入場門とは逆側にある「浄蔵墓所」にお参りをして、しばらくその場で心を清らかにし、その後、日本でも指折りの美観を望み、「心と目の浄化」で究極に癒されてみてはいかがでしょうか?
問題はバスで来られる方ですね。
市バスが何本も通っていますが、シーズンになると恐ろしい人ゴミと、付近の学生のため、まともにバスに乗れるということはまず出来ません。もう一本あとのバスに乗れたら「今日はラッキーだ」と思って下さい。
それほどシーズン中の金閣寺行きのバスは混雑します。覚悟して行って下さい。
しかし、今回もダラダラとした長文にお付き合いいただいたお礼に、超お得情報をお教えします。(^_-)
金閣寺の参道を市道まで出て、(西大路通りまでは出ないでください)南へ10分ほど歩くと、立命館大学があります。いまいちわからない方は、地図アプリを起動させて見て下さい。
この立命館大学は、市バスの車庫になっていますので、バスは全てここから始発で出て行きます。
つまり、ここまで歩いてバスに乗ると確実に目的地まで座って移動できるんです。
たった10分歩くだけで天国と地獄の差がありますよ。せっかくですから、ゆったり座って京都観光を楽しんで下さいね。(^^)v
大きな地図で見る
みなさんも週末には、日々の喧騒から解き放たれようと、ほうぼうのパワースポットへとお出かけになられている頃と思います。
しかし、比叡山では折からの秋霖のためか、すでに日毎目に鮮やかな紅葉も散り始め、毎年のことながら足早に冬の到来を感じております。ほんの少しばかり仕事に追われているだけなのに、女性の心と季節の移ろいというものは、本当に早いものです。

例年より少し早く見ごろを迎えている、延暦寺東塔内にある「文秀階段」
さて、前回のパワースポット研究では、室町幕府3代将軍足利義満が、天皇の位のみならず、私の提唱する王城鎮護のパワースポット「仏の結界」を手に入れるため、結界を形成するライン上に、金閣寺を建立したという説を、金閣寺内に存在する我が比叡山が輩出した、日本史上最強の呪術師「浄蔵」の墓をヒントに解き明かしました。
しかしそのおかげで、すっかり話の内容が浄蔵さんリスペクトになってしまい、金閣寺がこの地に建立された本当の理由について詳細な検証が出来ませんでした。
そこで、今回の本当に癒される京都のパワースポット研究⑭では、前回の続編として、金閣寺こと鹿苑寺金閣がいかなる理由でこの地に建立されたのかを検証し、また、観光シーズンを迎えた金閣寺の様子をレポートをしていきたいと思います。

金閣寺の撮影は、入場門を入ってすぐに撮影用の広場があるのですが、物凄い人ゴミのため撮影しにくいです。ですから、広場から少し歩いた所で撮影するのがベスト。上の写真のような構図で撮れますよ(^_-)
前回お話しました通り、金閣寺は、1397年(応永4年)、足利義満が西園寺家から土地を譲り受け、改築と新築によってこの地を一新し、北山山荘を造営。この山荘は、当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれ、室町幕府の政治中枢がこの地に集約され、一般的に「金閣」と呼ばれている「舎利殿」(しゃりでん)なども建立されました。
北山第は義満の死後遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)として、臨済宗相国寺派の院外塔頭として現在に至ります。
この一般的に金閣寺と云われる舎利殿は、漆(うるし)の壁に金箔を押した三階建ての三層宝形造の建物で、あまりにもの美しさのため「金閣寺」の由来となりました。
一階は初層・二階は二層・三階は三層と呼ばれ、それぞれに異なる様式を採用した特異な建築です。
初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像(ほうかんしゃかにょらいぞう)、向かって左に足利義満坐像を安置しています。
二層は書院造風(武家造)で「潮音洞」(ちょうおんどう)と称し、岩屋観音坐像と四天王像を安置しています。
三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、仏舎利を安置しています。
屋根は椹(さわら)の薄い板を重ねたこけら葺で、頂上には金銅製の鳳凰が飾られている。なお、金箔は二層および三層に貼られています。

舎利殿をじっくり見てみると、一層づつ建築様式が異なることがわかります。
金閣寺は、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)しました。国宝金閣(舎利殿)は全焼し、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失しました。
犯人は、寺の裏山で自殺を図りましたが一命を取り留めました。しかし彼の母親は、事情聴取のために京都に呼ばれた帰りに保津峡で、息子がおこしてしまった事件の責任を取り、投身自殺してしまいました。
とても悲しい事件ですね。
この事件は、三島由紀夫の小説『金閣寺』や、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっており、小説の中では、金閣寺の美しさに魅了され、狂わされた犯人の心中が鋭く描写されています。
なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は、1999年(平成11年)に京都市指定文化財に指定されました。
と、金閣寺の説明をさせていただきましたが、この舎利殿、日本に数ある建築物の中でも唯一と言ってもいいほど変わった建築物なんです。
どう変わっているかと言うと、この三階建ての建物、先ほども説明しました通り一階が公家の邸の代表的な建築様式である「寝殿造」でできており、2階が武家の建築様式「書院造」、3階は禅宗寺院の建築様式によく見られる「仏殿造」となっています。
ここまで読んで行くと、私のブログをよく読んでいただいているかたなら「ピン!」と感じるものがあるとおもいます。
わからない方は前々回のブログを読み返して欲しいのですが…
何と、この舎利殿(金閣寺)は義満による「公家」(朝廷)、「武家」、「仏教」を制したという証をデザインしたシンボルマークの建物なんですね。
この考え方は、これも前々回に紹介した作家の井沢元彦氏の書かれた『天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー 』(小学館文庫)の中で、語られているのですが、私はこの本を読んだ当時、正直にわかにはこの説が信じられませんでした。
しかし、「仏の結界」の存在を知ってしまった今では、義満に関し、全ての面で井沢氏が提唱する説と同調してしまう訳なんです。
と、同時に「仏の結界」の存在が世に出ることで、井沢氏の説が正しかったとの証明もしていることにもなるので、私の説と井沢氏の説は互いに正しいことを証明し合っていることになりますね。
つまり将軍(武士のトップ)であり、太政大臣(公家のトップ)であり、法皇(僧侶のトップ)であった足利義満は、「朝廷」、「武家」、「仏教」の権力と、を手に入れたことを証明するために、「仏の結界」のライン上にあった、西園寺と曼殊院門跡の土地を強制的に手に入れ、北山殿の舎利殿(金閣寺)を建立した訳なんです。
そして、「仏の結界」の三角形の中心を走るライン上に、金閣寺、相国寺を建立することによって足利将軍家の「万世にわたる子孫の繁栄」をも手に入れ、そのシンボルタワーとして「相国寺七重塔」の建立した訳です。

見事なまでに「仏の結界」の神護寺から大文字山までの中心を通るライン上に建立された
金閣寺、相国寺七重の塔、銀閣寺
何というエネルギーでしょうか。とにかく凄い野心です。(๑≧౪≦)
井沢氏によれば、天皇の位を手に入れようとしたため暗殺されたそうですが、あと数年義満が生きながらえていれば、日本の歴史はガラッと変わっていたかもしれないですね。
義満暗殺後、その意志は孫にあたる足利義政が受け継ぎ、大文字山の麓にあった浄土院の境内を接収し、慈照寺(銀閣)を建立。見事に平安新仏教の集団が張り巡らせた「仏の結界」の神護寺から大文字山までのラインを手中に治めた訳なんですね。
しかし「おごれるものは久しからず」、1467年に勃発した「応仁の乱」を皮切りに、かつて全てのものを手に入れた室町幕府は、衰退の一歩を辿って行くことになります。
足利将軍家も、10代の将軍にもわたり時代が下がって来ると、義満が血眼になって復活を試みた「仏の結界」も歴史の渦の中に忘れ去られてしまいます。
13代将軍足利義輝(あしかがよしてる1536~1565年)の治世、あることをきっかけに「仏の結界」は決定的に放棄されてしまします。
その後、『穴太記』において「天下を治むべき器用有」と政治的手腕を評され、武術においても誉れ高かった義輝は、地に落ちてしまった将軍の権威を諸大名から取り戻そうとしましたが、時はすでに戦国時代をむかえており、戦国大名である松永久秀と三好三人衆により暗殺されてしましました。
この室町幕府の滅亡を決定付けた「仏の結界」の放棄は、詳しく説明すると、また話が長くなるうえ、順序を追って説明しなければ話が「ちんぷんかんぷん」になってしまいますので、また追々「仏の結界」の〆で紹介するつもりです。楽しみにしといてくださいね。

金閣寺の総門 壁にはやはり5本線の「定規筋」が引かれる。
さて、金閣寺へは、自家用車かバスでしかいくことができません。駐車場は金閣寺専用駐車場が参道のすぐ近くにあり、また第二駐車場まで完備しているのでよっぽどのことがない限りは駐車できると思います。
駐車料金は最初の1時間が300円。以降30分ごとに150円の追加となります。
参拝は、はっきりいって「舎利殿」しか見るものがないうえ、寺院というよりはやはり「別荘」という意味合いの強い場所なので、1時間も廻れば十分やと思います。「ご利益を期待して…」訪れる場所ではないですね(^_^;)

境内で唯一お寺っぽい場所といえる「不動堂」
ただし、この場所を「仏の結界」と認識して、「浄蔵」さんのお墓を参拝するのであれば、京都でもトップクラスの「パワースポット」であることは間違いないです。
入場料は大人ひとり400円ですが、舎利殿という「世界的美術工芸品」を眺めるための見物料だと思って下さいね。
ちなみに前回お話ししました通り、「浄蔵」さんのお墓をご供養に参るだけならば入場料はかかりませんよ。
最高のプランとしては、入場門とは逆側にある「浄蔵墓所」にお参りをして、しばらくその場で心を清らかにし、その後、日本でも指折りの美観を望み、「心と目の浄化」で究極に癒されてみてはいかがでしょうか?
問題はバスで来られる方ですね。
市バスが何本も通っていますが、シーズンになると恐ろしい人ゴミと、付近の学生のため、まともにバスに乗れるということはまず出来ません。もう一本あとのバスに乗れたら「今日はラッキーだ」と思って下さい。
それほどシーズン中の金閣寺行きのバスは混雑します。覚悟して行って下さい。
しかし、今回もダラダラとした長文にお付き合いいただいたお礼に、超お得情報をお教えします。(^_-)
金閣寺の参道を市道まで出て、(西大路通りまでは出ないでください)南へ10分ほど歩くと、立命館大学があります。いまいちわからない方は、地図アプリを起動させて見て下さい。
この立命館大学は、市バスの車庫になっていますので、バスは全てここから始発で出て行きます。
つまり、ここまで歩いてバスに乗ると確実に目的地まで座って移動できるんです。
たった10分歩くだけで天国と地獄の差がありますよ。せっかくですから、ゆったり座って京都観光を楽しんで下さいね。(^^)v
大きな地図で見る
スポンサーサイト