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本当に癒される京都のパワースポット研究⑭仏の結界編~足利義満の野望(後編)~

 すっかり、京都の山々も紅葉の時期を迎え、観光シーズン本番となってきましたね。
 みなさんも週末には、日々の喧騒から解き放たれようと、ほうぼうのパワースポットへとお出かけになられている頃と思います。

 しかし、比叡山では折からの秋霖のためか、すでに日毎目に鮮やかな紅葉も散り始め、毎年のことながら足早に冬の到来を感じております。ほんの少しばかり仕事に追われているだけなのに、女性の心と季節の移ろいというものは、本当に早いものです。

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例年より少し早く見ごろを迎えている、延暦寺東塔内にある「文秀階段」


 さて、前回のパワースポット研究では、室町幕府3代将軍足利義満が、天皇の位のみならず、私の提唱する王城鎮護のパワースポット「仏の結界」を手に入れるため、結界を形成するライン上に、金閣寺を建立したという説を、金閣寺内に存在する我が比叡山が輩出した、日本史上最強の呪術師「浄蔵」の墓をヒントに解き明かしました。

 しかしそのおかげで、すっかり話の内容が浄蔵さんリスペクトになってしまい、金閣寺がこの地に建立された本当の理由について詳細な検証が出来ませんでした。

 そこで、今回の本当に癒される京都のパワースポット研究⑭では、前回の続編として、金閣寺こと鹿苑寺金閣がいかなる理由でこの地に建立されたのかを検証し、また、観光シーズンを迎えた金閣寺の様子をレポートをしていきたいと思います。

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金閣寺の撮影は、入場門を入ってすぐに撮影用の広場があるのですが、物凄い人ゴミのため撮影しにくいです。ですから、広場から少し歩いた所で撮影するのがベスト。上の写真のような構図で撮れますよ(^_-)
 

 前回お話しました通り、金閣寺は、1397年(応永4年)、足利義満が西園寺家から土地を譲り受け、改築と新築によってこの地を一新し、北山山荘を造営。この山荘は、当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれ、室町幕府の政治中枢がこの地に集約され、一般的に「金閣」と呼ばれている「舎利殿」(しゃりでん)なども建立されました。

 北山第は義満の死後遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)として、臨済宗相国寺派の院外塔頭として現在に至ります。

 
 この一般的に金閣寺と云われる舎利殿は、漆(うるし)の壁に金箔を押した三階建て三層宝形造の建物で、あまりにもの美しさのため「金閣寺」の由来となりました。

 一階は初層・二階は二層・三階は三層と呼ばれ、それぞれに異なる様式を採用した特異な建築です。

 初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像(ほうかんしゃかにょらいぞう)、向かって左に足利義満坐像を安置しています。

 二層は書院造風(武家造)で「潮音洞」(ちょうおんどう)と称し、岩屋観音坐像と四天王像を安置しています。
 
 三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、仏舎利を安置しています。

 屋根は椹(さわら)の薄い板を重ねたこけら葺で、頂上には金銅製鳳凰が飾られている。なお、金箔は二層および三層に貼られています。

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舎利殿をじっくり見てみると、一層づつ建築様式が異なることがわかります。


 金閣寺は、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)しました。国宝金閣(舎利殿)は全焼し、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失しました。

 犯人は、寺の裏山で自殺を図りましたが一命を取り留めました。しかし彼の母親は、事情聴取のために京都に呼ばれた帰りに保津峡で、息子がおこしてしまった事件の責任を取り、投身自殺してしまいました。

 とても悲しい事件ですね。

 この事件は、三島由紀夫の小説『金閣寺』や、水上勉の小説『五番町夕霧楼』『金閣炎上』の題材にもなっており、小説の中では、金閣寺の美しさに魅了され、狂わされた犯人の心中が鋭く描写されています。

 なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は、1999年(平成11年)に京都市指定文化財に指定されました。


 と、金閣寺の説明をさせていただきましたが、この舎利殿、日本に数ある建築物の中でも唯一と言ってもいいほど変わった建築物なんです。
 
 どう変わっているかと言うと、この三階建ての建物、先ほども説明しました通り一階が公家の邸の代表的な建築様式である「寝殿造」でできており、2階が武家の建築様式「書院造」、3階は禅宗寺院の建築様式によく見られる「仏殿造」となっています。 

 ここまで読んで行くと、私のブログをよく読んでいただいているかたなら「ピン!」と感じるものがあるとおもいます。

 わからない方は前々回のブログを読み返して欲しいのですが…

 何と、この舎利殿(金閣寺)義満による「公家」(朝廷)、「武家」、「仏教」を制したという証をデザインしたシンボルマークの建物なんですね。

 この考え方は、これも前々回に紹介した作家の井沢元彦氏の書かれた『天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー 』(小学館文庫)の中で、語られているのですが、私はこの本を読んだ当時、正直にわかにはこの説が信じられませんでした。

 しかし、「仏の結界」の存在を知ってしまった今では、義満に関し、全ての面で井沢氏が提唱する説と同調してしまう訳なんです。

 と、同時に「仏の結界」の存在が世に出ることで、井沢氏の説が正しかったとの証明もしていることにもなるので、私の説と井沢氏の説は互いに正しいことを証明し合っていることになりますね。

 つまり将軍(武士のトップ)であり、太政大臣(公家のトップ)であり、法皇(僧侶のトップ)であった足利義満は、「朝廷」「武家」「仏教」の権力と、を手に入れたことを証明するために、「仏の結界」のライン上にあった、西園寺曼殊院門跡の土地を強制的に手に入れ、北山殿の舎利殿(金閣寺)建立した訳なんです。

 そして、「仏の結界」の三角形の中心を走るライン上に、金閣寺、相国寺を建立することによって足利将軍家「万世にわたる子孫の繁栄」をも手に入れ、そのシンボルタワーとして「相国寺七重塔」の建立した訳です。

金閣寺
見事なまでに「仏の結界」の神護寺から大文字山までの中心を通るライン上に建立された
金閣寺、相国寺七重の塔、銀閣寺


 何というエネルギーでしょうか。とにかく凄い野心です。(๑≧౪≦)

 井沢氏によれば、天皇の位を手に入れようとしたため暗殺されたそうですが、あと数年義満が生きながらえていれば、日本の歴史はガラッと変わっていたかもしれないですね。

 義満暗殺後、その意志は孫にあたる足利義政が受け継ぎ、大文字山の麓にあった浄土院の境内を接収し、慈照寺(銀閣)を建立。見事に平安新仏教の集団が張り巡らせた「仏の結界」神護寺から大文字山までのラインを手中に治めた訳なんですね。

 しかし「おごれるものは久しからず」、1467年に勃発した「応仁の乱」を皮切りに、かつて全てのものを手に入れた室町幕府は、衰退の一歩を辿って行くことになります。

 足利将軍家も、10代の将軍にもわたり時代が下がって来ると、義満が血眼になって復活を試みた「仏の結界」も歴史の渦の中に忘れ去られてしまいます。

 13代将軍足利義輝(あしかがよしてる1536~1565年)の治世、あることをきっかけに「仏の結界」は決定的に放棄されてしまします。
 
 その後、『穴太記』において「天下を治むべき器用有」と政治的手腕を評され、武術においても誉れ高かった義輝は、地に落ちてしまった将軍の権威を諸大名から取り戻そうとしましたが、時はすでに戦国時代をむかえており、戦国大名である松永久秀と三好三人衆により暗殺されてしましました。

 この室町幕府の滅亡を決定付けた「仏の結界」放棄は、詳しく説明すると、また話が長くなるうえ、順序を追って説明しなければ話が「ちんぷんかんぷん」になってしまいますので、また追々「仏の結界」の〆で紹介するつもりです。楽しみにしといてくださいね。

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金閣寺の総門 壁にはやはり5本線の「定規筋」が引かれる。


 さて、金閣寺へは、自家用車バスでしかいくことができません。駐車場金閣寺専用駐車場が参道のすぐ近くにあり、また第二駐車場まで完備しているのでよっぽどのことがない限りは駐車できると思います。
 
 駐車料金は最初の1時間300円。以降30分ごとに150円の追加となります。
 
 参拝は、はっきりいって「舎利殿」しか見るものがないうえ、寺院というよりはやはり「別荘」という意味合いの強い場所なので、1時間も廻れば十分やと思います。「ご利益を期待して…」訪れる場所ではないですね(^_^;)

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境内で唯一お寺っぽい場所といえる「不動堂」
 
 ただし、この場所を「仏の結界」と認識して、「浄蔵」さんのお墓を参拝するのであれば、京都でもトップクラス「パワースポット」であることは間違いないです。

 入場料は大人ひとり400円ですが、舎利殿という「世界的美術工芸品」を眺めるための見物料だと思って下さいね。


 ちなみに前回お話ししました通り、「浄蔵」さんのお墓をご供養に参るだけならば入場料はかかりませんよ。

 最高のプランとしては、入場門とは逆側にある「浄蔵墓所」にお参りをして、しばらくその場で心を清らかにし、その後、日本でも指折りの美観を望み、「心と目の浄化」で究極に癒されてみてはいかがでしょうか?


 問題バスで来られる方ですね。

 市バスが何本も通っていますが、シーズンになると恐ろしい人ゴミと、付近の学生のため、まともにバスに乗れるということはまず出来ません。もう一本あとのバスに乗れたら「今日はラッキーだ」と思って下さい。

 それほどシーズン中金閣寺行きのバスは混雑します。覚悟して行って下さい。



 しかし、今回もダラダラとした長文にお付き合いいただいたお礼に、超お得情報をお教えします。(^_-)

 金閣寺の参道を市道まで出て、(西大路通りまでは出ないでください)南へ10分ほど歩くと、立命館大学があります。いまいちわからない方は、地図アプリを起動させて見て下さい。

 この立命館大学は、市バスの車庫になっていますので、バスは全てここから始発で出て行きます。
つまり、ここまで歩いてバスに乗ると確実に目的地まで座って移動できるんです。

 たった10分歩くだけ天国と地獄の差がありますよ。せっかくですから、ゆったり座って京都観光を楽しんで下さいね。(^^)v


大きな地図で見る
 




 
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本当に癒される京都のパワースポット研究⑬金閣寺に隠された、京都No.1パワースポット

 さて、前回のパワースポット研究で、室町幕府の足利将軍家、とりわけ足利義満が、私の提唱する「仏の結界」を利用して、仏のパワーを手に入れようとしていたという話をしました。

 また、そのために結界を形作る三角形の中央を走る大文字山から神護寺へと結ばれているライン上に存在していた天台宗の重要寺院の跡地に、相国寺を始めとした金閣寺銀閣寺という「臨済宗相国寺派」の院外塔頭寺院を建立したという事を地図を交えて実証しました。

 みなさんこの偶然というにはあまりにも合致しすぎる各寺院の位置関係を目の当たりにされて、平安京には、最澄さま空海さんを始めとした、平安新仏教の頭脳集団による「仏の結界」が張られていることをおぼろには信じられるようになってきたと思います。

 前回は、足利義満により建立された相国寺と、日本の歴史上類を見ない高さ(109メートル・建立以降500年間記録が破られることはなかった)の「七重の塔」が、「仏の結界」のシンボルタワーとして建てられたということを「仏の結界」の地図を以て実証した訳ですが、

 今回の本当に癒される京都のパワースポット研究⑬では、世界遺産としても有名な鹿苑寺金閣(じしょうじきんかく・金閣寺のこと)と「仏の結界」の関係について検証して行きたいと思います。

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金閣寺を見るには午後に限ります。西日が舎利殿を照らしだして、最高に美しいです



 みなさんも良くご存知の金閣寺は、世界遺産として、京都のみならず日本を代表する寺院であり、京都観光には欠かせないスポットですね。

 一般的に金閣寺は、

 鎌倉時代の1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘「北山第」を営んでいたが、代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていた西園寺家の当主である西園寺公宗が、「後醍醐天皇」をこの寺に招待して暗殺しようとする謀反が発覚したために逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収され、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

 1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によってこの地を一新し、北山山荘を造営する。当時は「北山殿」または「北山第」と呼ばれ、室町幕府の政治中枢がこの地に集約された。

 ちなみに寺の通称である「金閣寺」の「金閣」というのは「舎利殿」(しゃりでん)のことを云い、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物で、初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築で知られる。

 北山第は義満の死後遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。

 と、テストでここまで答えられると100点を貰えるでしょう。(^ω^)

 が、しかし一般的な回答の中には、金閣寺が建立される以前には、この地に天台宗5箇室門跡の一つ「曼殊院門跡」があったことには触れていませんね。

 
 曼殊院門跡とは、

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江戸時代、延暦寺から御所に向けての鬼門ライン上に建立された現在の曼殊院門跡(写真は勅旨門)


 伝教大師最澄さまが、比叡山上に営んだ一坊がその起源とされ、10世紀後半「是算」(ぜさん)の時、比叡山三塔のうちの西塔北谷(さいとうきただに)に移り、「東尾坊」(とうびぼう)と称するようになりました。

 是算は、菅原氏の出身であったことから、菅原道真祭神とする北野天満宮の創建(天暦元年・947年)に際し別当(神社の責任者)に任命され、それ以降歴代の曼殊院門主は北野天満宮の別当を兼ねるようになったそうです。

 是算から数えて8代目の門主・忠尋の時に、管理の便のため北野天満宮からさほど遠くない北山(現・京都市右京区)に別院を建てられ、寺号を「曼殊院」と改め、その後しばらくは比叡山にある本坊と北山の別院とが並立していていましたが、次第に北山の別院が主体となっていったそうです。
 
 その後曼殊院は、足利義満が北山殿(後の鹿苑寺)造営するにいたり移転を余儀なくされ、康暦年間(1379-1381)、洛中に移転しました。
 
 と、曼殊院側からは、はっきりと金閣寺は曼殊院を移動させて建立されたと書いてあります。
 
 しかし、金閣寺のパンフレットや寺伝には曼殊院のことは一切記されておらず、意図的に曼殊院の存在が消されているような印象を受けます。

 この意図的に隠匿したい事情こそが、義満による「仏の結界」のパワーの乗っ取りを意味してるのではないでしょうか。



 私は、北山第(金閣寺)は、西園寺曼殊院の両方の跡地に建立されたのだと思いますよ。

 今となっては、どこまでが西園寺で、どこまでが曼殊院かはわからなくなってしまっていますが、一つ確実に現在の金閣寺に曼殊院があったという証拠は見つけましたよ。(๑≧౪≦)


 その証拠とは、下の写真です。

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 この写真の「石碑」は、「日本史上最強の呪術師」と称された「浄蔵貴所」(じょうぞうきしょ891~964年)の「墓石」あるいは「供養塔」と云われています。

 場所は、金閣寺で入場の受付を済ませ、入場門とは逆のお手洗いの方向に向かうと、女性用トイレの目の前にひっそりと建っています。

 わたしは、この「石碑」にやっと巡り会えた嬉しさのあまり、チャリンコ用の変なウェアにもかかわらず、女性用トイレの前でパシャパシャと写真を撮りまくってしまい、あまりにもの怪しさのために通報されていたのか、何度も係員のおじさんがチラチラと見張りに来ていました。(^_^;)


 それはさておき、この浄蔵さん、とにかくすごい呪術者で、詳しい人から言わせるとあの高名な「安倍晴明」(あべのせいめい)すら比べ物にならない程の力をお持ちだったそうです。
 ちなみに有名な「一条戻り橋」で死者が生き返った話は、安倍晴明が近くに住んでいたため、清明の逸話のイメージが強いですが、この話は、実は浄蔵さんが、父親である「三善清行」生き返せた話なんですよ。

 それだけではなく、ロールプレイングゲームで言うと確実にラスボスである天下の大怨霊「菅原道真」(すがわらのみちざね・北野天満宮に天神として祀られる)のみならず、関東で反乱をおこし自らを「新皇」と名乗った「平将門」(たいらのまさかど・神田明神として祀られる)まで調伏したといわれるスーパーヒーローなんですよ。

 私は既に浄蔵さんマニアになってしまったので、詳しいことはまたの機会にたっぷりと紹介させていただきますが、この10年以内に浄蔵さんブームが必ずやってくると確信は持ってます。

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浄蔵の石碑の拡大写真



 この浄蔵さん、比叡山のお坊さんであったことには間違いないんですね。比叡山には、今でも浄蔵の伝説がいくつか残っていますし、比叡山に関する全ての書物を蔵している「叡山文庫」の目録には、浄蔵の伝記である「浄蔵伝」の名が記されていますから。

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 浄蔵が法力比べをしたと云われる延暦寺西塔釈迦堂。付近には、浄蔵の法力で空中を舞ったと云われる「護法石」がある。
 写真は、居士林研修の早朝坐禅研修のため開堂された「煙雨に煙る早暁の釈迦堂」

 

 しかしなぜ浄蔵さんの石碑が金閣寺の中にあるのか? とても不思議ですよね。

 1722年に書かれた『高山狗留孫仏縁起伝説』によると、都で呪術師の栄光を欲しいままにした浄蔵さんは70歳を越え、山口県の高山という所に雲居寺を建て、そこで円寂(えんじゃく・高僧が亡くなる事)されたとあります。

 となると、金閣寺の石碑は「墓」なのか「供養塔」なのか、一体何なのでしょう。ミステリーは深まります ( ̄^ ̄)

 まぁ墓なり、供養塔なり、記念碑なり、京都でも指折りのパワースポットには変わりないでしょうから、なんだっていいのですが、問題は「どうして金閣寺の中にこの石碑があるのか?」です。

 残念ながらこの関係を関連付けるようなはっきりとした資料は、今のところ見つかっていませんが、今までの話の中から私が、「ジッちゃんの名にかけて」推理するに、


 ○「金閣寺のこの場所には、以前曼殊院が建立されていた」。

 ○「浄蔵は曼殊院と何らかの関係がある」。


 と、この2つの条件が満たされると、この場所に浄蔵さんの石碑が建っていても何ら問題ないわけです。

 上の件は、曼殊院側が以前この地にあったことを認めているので、間違いないでしょう。逆にこの石碑があることが曼殊院がこの地にあったことを証明していることになりますから。(^_-)

 問題は下の件ですね。「浄蔵と曼殊院との関係」

 資料が全くないので、確信はできないのですが、

 関連を探しましたよ。o(^▽^)o

 
 実は浄蔵さん、北野天満宮とは非常に近い関係。というか、浄蔵さんの一家である「三善家」(浄蔵さんの本名は三善浄蔵といいます)は北野天満宮に祀られている怨霊の首領「菅原道真」とは切っても切れない関係なんです。

 浄蔵さんの父である「三善清行」(みよしきよゆき・きよつらとも言う847~919年)は、子供の頃からたいそう頭が良く、エリート街道まっしぐらの人生だったそうです。

 しかし、合格間違いないと言われたエリート官僚になるための「キャリア試験」に落っこちてしまいます。

 その時の試験官が何と! あの菅原道真だったんです。
 
 清行は次回の試験で合格したものの、それ以降二人の関係は最悪で、真っ直ぐな性格ではっきりモノを言う清行は、事あるたびに道真ともめていたそうです。

 そのためか、道真が失脚する原因となった昌泰の変(しょうたいのへん・左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(ざんげん)により醍醐天皇が道真を大宰府(だざいふ)へ左遷。)では、清行も深く関わっていたのではないかと云われています。

 しかし、真っ直ぐな性格であった清行は、学者出身の身分から宇多天皇に引き立てられ、今では右大臣となって時平と対立し始めた道真を案じ、「身をわきまえて引退するべき」との書簡を送ったそうですが、道真は全く聞き入れなかったということです。

 その後道真は太宰府で「悪神となって、怨みに報いよう」との言葉を残し憤死。その魂は大怨霊となり都を恐怖のどん底へと引き込んで行くことになります。

天満宮②
春先に梅香漂う北野天満宮の楼門 時平に対する怨みのため怨霊となった道真は、天神さまとしてこの地に祀られた


 『北野天神縁起』によると、延喜9(909)年4月、病に苦しむ時平の病の原因が道真の怨霊の仕業だとわかると、名だたる僧侶が時平の元に呼ばれ祈祷をおこないます。

 しかしいっこうに効果はみられません。そこで、調伏師としても世間の評判が高かった清行の子・浄蔵が呼ばれ加持祈祷をおこないます。

 父に連れられた浄蔵が畏まって祈祷すると、床に伏していた時平の左右の耳から青龍の頭があらわれ、道真の怨霊が無実の罪を述べる始めます。
 
 道真の怨念の言葉に、一連の事態の真実を悟った清行・浄蔵親子はそれ以上、道真の怨霊を鎮めることをあきらめ、時平の屋敷を辞してしまいます。

 その後、ほどなくして時平は39歳の若さで息を引き取ったとのことでした。

 また、清行の弟?浄蔵の弟とも云われる「日蔵」(にちぞう・905~967年)は、「真言宗」の行者として吉野金峰山(よしのきんぶぜん)で二十六年に及ぶ修験行に励み、洞窟で断食修行をしていると、突然高熱に襲われ気を失い仮死状態になり、霊魂が冥界に辿り着きます。

 冥界を巡り、蔵王菩薩の導きで、「日本太政威徳天(だいじょういとくてん)」として怨霊の首領として君臨している菅原道真に出会うと、清涼殿に落雷させたのは「太政威徳天」の第三使者・「火雷天気毒王(からいてんきどくおう)」の仕業であり醍醐天皇を死に至らしめたのも太政威徳天の怨念だと聞かされます。

 このとき日蔵は、道真から「我が身を、慇懃(いんぎん)に祀るなら、怒りを鎮めよう」との言葉を聞きます。
 また地獄では、急死した醍醐天皇と会い、天皇は五罪を懺悔し、自分のために善根を積んでもらえるよう日蔵に頼んだそうです。
 
 この世に帰ってきた日蔵は、地獄に墜ちた醍醐天皇のために都の中心を通る「朱雀大路」に千本の塔婆を建て生涯菩提を弔ったそうですが、それが現在の千本通りの語源となっているそうです。

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北野天満宮の本殿

 
 と、いつも通り、いささか脱線気味に話を進めましたが、話を要約すると

 つまり「三善家」一家総出で「菅原道真の怨霊」と戦い、その御霊を生涯かけて弔った訳なんですね。

 ここまで、徹底的に家族で供養しているところがわかると、「清行はやっぱり道真公の失脚に深く関わったんだろうなぁ」などとゲスな勘ぐりもしたくなりますが。

 本筋は、ズバット!(もうTVで聞くこともないでしょうが)(^_^;)

 浄蔵さんは、生前菅原道真ライバル関係にあった父の清行と共に道真の怨霊と戦い、弟(叔父?)であり、真言宗僧侶の日蔵さんが頼まれ、天神さんとして道真公を祀った「北野天満宮」と、非常に深い関わりがあるということです。

 極端な話、もともと「北野神社」だったのが北野天満宮となるきっかけとなったのは、三善一家の存在以外にありえないでしょう。

 そこで思い出して欲しいのが、冒頭で述べた「北野天満宮は創建以来明治に至るまで、代々曼殊院門跡の門主が別当を務めた」ということです。

 つまり、北野天満宮と、比叡山の西塔と、浄蔵さんは一つの線で結ばれている訳なんです。

 曼殊院は比叡山西塔から派生した里坊ですから、浄蔵さんとは非常に縁が深くなると結うわけなんですね。

 「ひょっとして曼殊院を開いた「是算」は、実は浄蔵さんだったかもしれない」と思えるほど、ミステリーはますます深まっていきます。(*^。^*)

 まぁ真実はどうであったとしても、この理論で金閣寺に浄蔵さんの石碑があることが証明できると同時に、「仏の結界」を張るための曼殊院が、金閣寺の前に建立されていた事は証明できたと思いますよ。

 

 今回は、金閣寺を題材に足利義満の「仏の結界」への野望をお話ししようと思っていたのですが、どうも浄蔵さんのお話が長くなってしまいました。

 しかし、歴史の影に未だ埋もれている稀代の呪術師を皆さんに紹介できただけでも今回の「パワースポット研究」の本懐を遂げられたと思います。

 ちなみに金閣寺の受付のおじさんにお聞きした所、浄蔵さんの石碑にだけお参りするのであらば、「通常の入場料はいらない」ということでした。

 浄蔵さんの石碑は「京都の隠れたパワースポット№1」間違いないです。

 御利益等はまだまだ未知数ですが、私はこれから暇を見つけご供養に参じたいと思います。 



 次回は、きちんと金閣寺と足利義満と、「仏の結界」の関係についてお話ししたいと思います。(^_-)-☆


 
 

 
 
 
 
プロフィール

やま法師

Author:やま法師
 生まれはおろか、戸籍を尋ねてみても、江戸時代の文久年間までは、とりあえず遡ることが確認できた京都(宇治郡・醍醐)人。当時の身分制度から考えるとそれ以前よりご先祖さまが、此の地に定住していたことは間違いない。
 
 生来よりのきかん坊で、自由奔放な青春を謳歌し、30代後半まで犯罪スレスレの生業で生計を立てるも、ある日奇瑞の仏縁を頂くことで、これまでの諸行を省みて仏に帰依する。

 得度授戒をしていない凡夫、いわゆる一般人のなかでは、日本仏教の母山である比叡山延暦寺に一番近い立場の人間となれたことへ報恩感謝し、その証として、ブログを通じてリアルな比叡山の情報を発信して行きたい。

 また、職権を利用することで、昨今よく目にする京都の観光情報のみを紹介するブログとは一線を画した、歴史的かつ、宗教的な側面を踏まえ、本物の「心の癒し」を目的とした京都並びに周辺の観光情報を紹介して行きたい。

 その一方、趣味のロードバイクを駆使することで、大好物のラーメンを始めとしたB級グルメ等を細やかに発信し、全国より京都へ訪れてくれた方々への一助となりたい。

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