本当に癒される京都のパワースポット研究⑫仏の結界編~足利義満の野望~
さて、前回のパワースポット研究⑪大文字山の秘密では、「大文字山送り火」の起源と、大文字山の「大」の字が向いている方向について徹底検証しました。
そして、一般的に「大文字の送り火は、室町幕府9代将軍の足利義政が始めたため、「大」の字は足利家の私寺である相国寺の方向を向いている」と云われている定説を根底から覆し、大文字山は「平安新仏教」の頭脳集団による「仏の結界」として存在する説」を提唱しました。

京都の中心地に威風堂々とたたずむ相国寺の法堂(ほっとう)
その根拠として、
○「仏の結界の三角形の線上に大文字山の「大」の字がピッタリはまる」
○「「大」の字の中心にある祠には弘法大師空海が祀られ、また麓にはかつて浄土寺という天台宗にとって非常に重要な大伽藍が建立されていたこと。また、銀閣寺はその伽藍跡に建てられている」
○「大文字の送り火は、浄土寺が廃れた後にその流れを汲み浄土門によって建立された浄土院の檀家が世襲で取り仕切っている」
○「「大」の字は、相国寺の方向を向いているのではなく、神護寺の方向を向いている」
と、この4つの根拠を示したわけですが、まだまだそれだけでは疑ってられる方も多いことだろう思います。
そこで今回の「本当に癒されるパワースポット研究⑫仏の結界編~足利義満の野望~」では、なぜ「大」の字は相国寺に向いていると云われ始めたのかを、「仏の結界」を用いて証明し、その裏に隠された室町幕府足利将軍家の野望について検証していきます。
まずは、下の図を見て下さい。

この図は「仏の結界」において、大文字山の「大」の字から出発し神護寺に向かう、いわばかつての「三大大社の三角結界」で言う「将軍塚のライン」の役割を果たすラインの図なのですが、このライン上には、銀閣寺、相国寺、鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく・いわゆる金閣寺)がピッタリと当てはまるのが見えますか?
(銀閣寺に関しては、地図の中に入りきらなかったため、前回の地図を参考にしてください)(^_^;)
銀閣寺の場合元々が浄土寺の大伽藍があった場所なので、現在地とは少々の誤差がありますが、あとの2つの寺院はピッタリとはまっているはずです。
この3つの寺院は、3寺院とも足利将軍家建立による私寺で、すべて現在「臨済宗相国寺派」(りんざいしゅうしょうこくじは)に属します。しかも「金閣」「銀閣」寺とも「院外塔頭」という相国寺の外に建てられたいわば「飛び地」のようなもので、この3寺院は身内同然に結ばれています。
このことから見ても、もはや偶然という言葉では言い逃れることはできないでしょう。
しかし、それでも疑ってかかる頭の固い読者のあなたに驚愕の事実を教えます。
何とこの3寺院の建てられる以前には、それぞれの場所には
銀閣寺=浄土寺(天台宗寺院・恵心僧都らにより二十五三昧会が催され、現在の「お葬式」の原型を形作る。浄土門(南無阿弥陀仏を唱える宗派)の聖地)
相国寺=出雲寺(天台宗寺院・伝教大師最澄さまが自ら刻んだ「毘沙門像」(びしゃもんぞう)を本尊にする。後の毘沙門堂門跡)
金閣寺=曼殊院門跡(天台宗寺院・代々北野天満宮の別当(べっとう・実際に天満宮を管理運営する役職。)を務める門跡寺院)
と、そのすべてが天台宗の最重要寺院の跡地に建立されており、その中には現在の天台宗においても最も上位とされる五箇室門跡(ごかしつもんぜき)が、5寺院のうち2寺院も入っています。
ここまで実証を挙げるともう疑う余地はないでしょう。(^-^)
つまり、室町幕府の足利将軍家は平安時代前期に仕掛けられた「仏の結界」の存在に気づき、かつての道元や日像と同じようにそれを利用しようとした訳なんです。

相国寺の総門 寺院内は当時の絢爛豪華さもすっかり息を潜め、同志社大学生の憩いの場となっている。
そもそも室町幕府は、歴史上に存在した3つの幕府のうち、唯一平安京で幕府の中心を構えました。
そのためか、平家と同じように公家へと近づいてゆき、3代将軍足利義満(あしかがよしみつ・1358~1408年)の代にもなると都の主である天皇の位にまでその触手を伸ばそうとしてきます。
義満は、室町幕府第3代将軍(在職1368~1394年)として南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立すると共に、鹿苑寺金閣を建立して北山文化を開花させるなど室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いたとされます。
将軍と太政大臣という武家と公家の頂点にに上り詰め、その栄華を極めた義満が次に手に入れようとしたものは天皇の位だったと作家の井沢元彦氏は、著書『天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー 』(小学館文庫)の中で、語っています。
また、出家して法皇となった義満は、天皇を凌ぐ己の権力を見せつけるため、天皇のおわす御所の真横に相国寺を造営します。
その大きさたること境内が約140万坪。南は一条通りから北は現在の上御霊神社、東西至っては、現在同志社大学がある烏丸通りから賀茂川まで達したそうで、その内部には約50の塔頭寺院が建っていたそうです。
比叡山では観光案内の人が、よく「野球場は大体1万坪くらい」と説明されていますので、平安京のド真ん中に野球場140個分とでも言いましょうか(ちなみに比叡山延暦寺の境内は500万坪と云われています)。
あまつさえその境内に、その建築以降500年以上も記録を破られる事のない日本の歴史上最高の高さ(約109メートル)を誇る「相国寺七重の塔」を建立したそうです。
しかし、あまりにも天皇に対する不遜のためか(現在でも皇居付近では、皇居を見下ろすことになる程の高さの建造物は暗黙の了解で建てられることはないらしいです)、七重の塔は2度も放火に遭い、一度は義満自ら再建しますが、再びの放火後3度建てられることはなかったそうです。

禅寺ならではの鐘楼 となりには有名な「宗旦稲荷」がある
一般的に義満が出家した理由については、義満が当時の中国である「明」と日明(勘合)貿易を希望した折、明の皇帝は「明が認めた日本の国王は「天皇」なので、その臣下である義満とは直接話をすることは無い」と突っぱねられたそうです。
義満はその打開策として、出家をすることで天皇の臣下の籍から脱し(お坊さんになることで身分制度から外れ、誰とでも対等に付き合えるようになるんです)、「法皇」の称号を得ることで、明の皇帝より「日本国王」と認められ、直接交渉をを承諾してもらい、日明貿易を始める事ができたそうです。
そしてその勢いと潤沢なる資金で幕府の基盤を揺るぎなきものとし、先に述べたような朝廷(天皇)をないがしろにするような暴挙に出たということなんですが、
しかし私が思うには、どうも義満が望んだのは天皇の位だけではなく、「仏の結界」のパワーそのものだったかもしれないですね。
その証拠に、先ほど述べた相国寺の七重の塔が建っていた場所なのですが、この地点は現在でも「塔之段町」という地名で残っています。
重要なのはその地点です。下の図をみてビックリしてください。

どうですか?(^ω^) ビックリしてもらえましたか?
そう、何と相国寺の七重の塔は、かなりピンポイントに「仏の結界」の大文字山から神護寺へとつながるライン上に建っていた訳です。
つまり相国寺の七重の塔というのは、義満が御所をを見下ろすのみならず、自らが「仏の結界」を征したシンボルとして建てられたのではないでしょうか。
むしろ、位置的に考えても「仏の結界」のシンボルタワーとして建立したと考える方が自然ですよね。
ちなみにこの相国寺へは、京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」で下車します。
地上に上がってくると同志社大学の今出川キャンパスがありますので、京都御所を向かいに見ながら今出川通りを東に5分ほど歩きます。
同志社大学と同志社女子大学の間にある「今出川御門」の前の通りまで来ると左へ曲がります。すると、すぐに相国寺の総門が見えますので、非常にわかりやすいですよ。
境内は、大きな通りから少し離れているうえ、境内は出入りが自由になっていますので、騒音がほとんどなく、地元の方々や同志社大学の学生たちが楽しそうに憩い、法堂や宝塔がすぐ目の前にある京都ならではの公園的情景に誰もが心を癒されることでしょう。
車で行かれる場合は、京都御所の烏丸中立売の駐車場がお勧めです。駐車料金は3時間で500円ですし、駐車場から御所の白塀や清所門を愛でながらの散歩は、本当に癒されます。私もよく御所に散歩にいきますが「京都に生まれて良かったなぁ」と思える瞬間です。また、この駐車場からなら15分くらいで相国寺まで行けますよ。(^_-)
話を戻しますが、この相国寺があった塔之段町のすぐ北側には「毘沙門町」という地名も見えます。
その毘沙門町こそが、天台宗の宗祖伝教大師最澄さまが建立した「出雲寺」の、しかも自らが刻まれてご本尊とした「毘沙門天像」を祀ったお堂、つまり現在の「毘沙門堂門跡」の元となったお堂が建っていたと云われる場所なんですね。
元々出雲寺も上御霊神社から当時の遺物が発掘されるほどの大伽藍を誇っていたと思われますが、なぜ最澄さまがこの地に毘沙門天像を祀り、出雲寺を建立したのかはわかっていませんでした。

先日、平成の修復を終えた毘沙門堂門跡の本堂

正面入り口の額にははっきりと「出雲寺」と掲げられている
しかし今となっては「仏の結界」の中心ラインを走るライン上に「仏の外護者」である毘沙門天を祀るために出雲寺を建立したとはっきりと建立理由が言えます。
ちなみにこの出雲寺には、平安京を造立するためにつくられた朝廷と山城の二大豪族による「三大大社の結界」の下鴨神社から松尾大社にかけてのラインも通過しています。
そもそも出雲寺という名称は、古くからこの地を支配していた「出雲氏」から来ているらしいんですが、こうやってほぼ毎日京都の地図とにらめっこしていると、どうも下鴨神社の位置とこの出雲氏一族の支配地域が近すぎるような気がするのです。本当に川一つまたいだだけの数10メートル離れているだけですから。
どうもなぜ上賀茂・下鴨神社と賀茂氏の氏神が二つに分かれているのか、何らかの理由はありそうですね。
今のところ本編とは少し飛んでしましますので、またじっくり研究して報告したいと思います。
話がすっかり飛んでしましましたが、つまり、義満が出家をした理由は、先ほどの「明の皇帝に日本国王と認めてもらう」という点と、またそれ以上に、出家し仏教の最高位の「法皇」となることで「仏の結界」パワーすら、自らの所有物にしてしまおうと画策した上のことではないでしょうか。
「馬鹿げたこと」とおっしゃるかもしれませんが、井沢氏も常からおっしゃっている通り「日本の学者は宗教的な側面をあまりに軽視しすぎている」のです。
私も以前から提唱しています通り、当時の日本では仏教こそが最高の科学であり、そのツールを使いこなすものこそが、今で言うところの最高の「科学者」であり「医学者」であった訳なんです。つまり最澄さまや空海さんは、ある意味では米国からITの技術を学んで帰っきたソフトバンク社の孫社長や「IPS細胞」を発見した山中京大医学部教授のような存在であったと言っても過言ではないでしょう。
つまり、義満は当時最先端の科学力の結晶である「仏の結界」。その中心を通る線上に造立された出雲寺を手に入れ、相国寺の大伽藍を造立。そしてその権力の象徴であるシンボルタワーすなわち七重の塔を建立したのではないでしょうか。
とにかくすごい野心家ですね。(^_^;)
武家の棟梁として生まれただけにとどまらず、太政大臣という公家社会の頂点にも立ち、天皇の位ばかりか仏法つまり「仏の結界」まで、まさしくこの世のすべてを手に入れようとしていたのですね。
しかし結局は、井沢氏の説では義満は暗殺されてしまうみたいです。
発するエネルギーが強すぎたのでしょうね。
まぁ誰に暗殺されたかは私にとってはどうでもいいことなのですが、こと七重の塔の放火犯に関しての黒幕については、私は、「天台及び真言宗」の「仏の結界」を護る僧侶であったのではないかと確信しています。
それはなぜか?
そもそも、「仏の結界」が張られた大前提は、「皇室の万代にわたる繁栄を祈願する」ことで平安仏教の若手集団が、朝廷(天皇)より厚い庇護を受けるという契約だったはず。
まだ怨念対する信仰が最先端科学の当時では、契約違反はすなわち即怨念による「呪い」をかけられてしまうことになります。
そのためにも、これ以上義満に踏み込まれてはいけないラインがあったのではないでしょうか?
とにかく義満が相国寺を造立した裏側には、「この世の全てを手に入れる」といったとてつもないほどの壮大な野望が隠されていた訳なんですね。
このあらゆるものを手に入れようとする義満が「仏の結界」を手に入れるために行った事柄はまだまだあります。
次回もそのあたりを掘り下げて義満が手に入れようとしていた「パワースポット」を紹介していきたいと思います。
大きな地図で見る
そして、一般的に「大文字の送り火は、室町幕府9代将軍の足利義政が始めたため、「大」の字は足利家の私寺である相国寺の方向を向いている」と云われている定説を根底から覆し、大文字山は「平安新仏教」の頭脳集団による「仏の結界」として存在する説」を提唱しました。

京都の中心地に威風堂々とたたずむ相国寺の法堂(ほっとう)
その根拠として、
○「仏の結界の三角形の線上に大文字山の「大」の字がピッタリはまる」
○「「大」の字の中心にある祠には弘法大師空海が祀られ、また麓にはかつて浄土寺という天台宗にとって非常に重要な大伽藍が建立されていたこと。また、銀閣寺はその伽藍跡に建てられている」
○「大文字の送り火は、浄土寺が廃れた後にその流れを汲み浄土門によって建立された浄土院の檀家が世襲で取り仕切っている」
○「「大」の字は、相国寺の方向を向いているのではなく、神護寺の方向を向いている」
と、この4つの根拠を示したわけですが、まだまだそれだけでは疑ってられる方も多いことだろう思います。
そこで今回の「本当に癒されるパワースポット研究⑫仏の結界編~足利義満の野望~」では、なぜ「大」の字は相国寺に向いていると云われ始めたのかを、「仏の結界」を用いて証明し、その裏に隠された室町幕府足利将軍家の野望について検証していきます。
まずは、下の図を見て下さい。

この図は「仏の結界」において、大文字山の「大」の字から出発し神護寺に向かう、いわばかつての「三大大社の三角結界」で言う「将軍塚のライン」の役割を果たすラインの図なのですが、このライン上には、銀閣寺、相国寺、鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく・いわゆる金閣寺)がピッタリと当てはまるのが見えますか?
(銀閣寺に関しては、地図の中に入りきらなかったため、前回の地図を参考にしてください)(^_^;)
銀閣寺の場合元々が浄土寺の大伽藍があった場所なので、現在地とは少々の誤差がありますが、あとの2つの寺院はピッタリとはまっているはずです。
この3つの寺院は、3寺院とも足利将軍家建立による私寺で、すべて現在「臨済宗相国寺派」(りんざいしゅうしょうこくじは)に属します。しかも「金閣」「銀閣」寺とも「院外塔頭」という相国寺の外に建てられたいわば「飛び地」のようなもので、この3寺院は身内同然に結ばれています。
このことから見ても、もはや偶然という言葉では言い逃れることはできないでしょう。
しかし、それでも疑ってかかる頭の固い読者のあなたに驚愕の事実を教えます。
何とこの3寺院の建てられる以前には、それぞれの場所には
銀閣寺=浄土寺(天台宗寺院・恵心僧都らにより二十五三昧会が催され、現在の「お葬式」の原型を形作る。浄土門(南無阿弥陀仏を唱える宗派)の聖地)
相国寺=出雲寺(天台宗寺院・伝教大師最澄さまが自ら刻んだ「毘沙門像」(びしゃもんぞう)を本尊にする。後の毘沙門堂門跡)
金閣寺=曼殊院門跡(天台宗寺院・代々北野天満宮の別当(べっとう・実際に天満宮を管理運営する役職。)を務める門跡寺院)
と、そのすべてが天台宗の最重要寺院の跡地に建立されており、その中には現在の天台宗においても最も上位とされる五箇室門跡(ごかしつもんぜき)が、5寺院のうち2寺院も入っています。
ここまで実証を挙げるともう疑う余地はないでしょう。(^-^)
つまり、室町幕府の足利将軍家は平安時代前期に仕掛けられた「仏の結界」の存在に気づき、かつての道元や日像と同じようにそれを利用しようとした訳なんです。

相国寺の総門 寺院内は当時の絢爛豪華さもすっかり息を潜め、同志社大学生の憩いの場となっている。
そもそも室町幕府は、歴史上に存在した3つの幕府のうち、唯一平安京で幕府の中心を構えました。
そのためか、平家と同じように公家へと近づいてゆき、3代将軍足利義満(あしかがよしみつ・1358~1408年)の代にもなると都の主である天皇の位にまでその触手を伸ばそうとしてきます。
義満は、室町幕府第3代将軍(在職1368~1394年)として南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立すると共に、鹿苑寺金閣を建立して北山文化を開花させるなど室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いたとされます。
将軍と太政大臣という武家と公家の頂点にに上り詰め、その栄華を極めた義満が次に手に入れようとしたものは天皇の位だったと作家の井沢元彦氏は、著書『天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー 』(小学館文庫)の中で、語っています。
また、出家して法皇となった義満は、天皇を凌ぐ己の権力を見せつけるため、天皇のおわす御所の真横に相国寺を造営します。
その大きさたること境内が約140万坪。南は一条通りから北は現在の上御霊神社、東西至っては、現在同志社大学がある烏丸通りから賀茂川まで達したそうで、その内部には約50の塔頭寺院が建っていたそうです。
比叡山では観光案内の人が、よく「野球場は大体1万坪くらい」と説明されていますので、平安京のド真ん中に野球場140個分とでも言いましょうか(ちなみに比叡山延暦寺の境内は500万坪と云われています)。
あまつさえその境内に、その建築以降500年以上も記録を破られる事のない日本の歴史上最高の高さ(約109メートル)を誇る「相国寺七重の塔」を建立したそうです。
しかし、あまりにも天皇に対する不遜のためか(現在でも皇居付近では、皇居を見下ろすことになる程の高さの建造物は暗黙の了解で建てられることはないらしいです)、七重の塔は2度も放火に遭い、一度は義満自ら再建しますが、再びの放火後3度建てられることはなかったそうです。

禅寺ならではの鐘楼 となりには有名な「宗旦稲荷」がある
一般的に義満が出家した理由については、義満が当時の中国である「明」と日明(勘合)貿易を希望した折、明の皇帝は「明が認めた日本の国王は「天皇」なので、その臣下である義満とは直接話をすることは無い」と突っぱねられたそうです。
義満はその打開策として、出家をすることで天皇の臣下の籍から脱し(お坊さんになることで身分制度から外れ、誰とでも対等に付き合えるようになるんです)、「法皇」の称号を得ることで、明の皇帝より「日本国王」と認められ、直接交渉をを承諾してもらい、日明貿易を始める事ができたそうです。
そしてその勢いと潤沢なる資金で幕府の基盤を揺るぎなきものとし、先に述べたような朝廷(天皇)をないがしろにするような暴挙に出たということなんですが、
しかし私が思うには、どうも義満が望んだのは天皇の位だけではなく、「仏の結界」のパワーそのものだったかもしれないですね。
その証拠に、先ほど述べた相国寺の七重の塔が建っていた場所なのですが、この地点は現在でも「塔之段町」という地名で残っています。
重要なのはその地点です。下の図をみてビックリしてください。

どうですか?(^ω^) ビックリしてもらえましたか?
そう、何と相国寺の七重の塔は、かなりピンポイントに「仏の結界」の大文字山から神護寺へとつながるライン上に建っていた訳です。
つまり相国寺の七重の塔というのは、義満が御所をを見下ろすのみならず、自らが「仏の結界」を征したシンボルとして建てられたのではないでしょうか。
むしろ、位置的に考えても「仏の結界」のシンボルタワーとして建立したと考える方が自然ですよね。
ちなみにこの相国寺へは、京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」で下車します。
地上に上がってくると同志社大学の今出川キャンパスがありますので、京都御所を向かいに見ながら今出川通りを東に5分ほど歩きます。
同志社大学と同志社女子大学の間にある「今出川御門」の前の通りまで来ると左へ曲がります。すると、すぐに相国寺の総門が見えますので、非常にわかりやすいですよ。
境内は、大きな通りから少し離れているうえ、境内は出入りが自由になっていますので、騒音がほとんどなく、地元の方々や同志社大学の学生たちが楽しそうに憩い、法堂や宝塔がすぐ目の前にある京都ならではの公園的情景に誰もが心を癒されることでしょう。
車で行かれる場合は、京都御所の烏丸中立売の駐車場がお勧めです。駐車料金は3時間で500円ですし、駐車場から御所の白塀や清所門を愛でながらの散歩は、本当に癒されます。私もよく御所に散歩にいきますが「京都に生まれて良かったなぁ」と思える瞬間です。また、この駐車場からなら15分くらいで相国寺まで行けますよ。(^_-)
話を戻しますが、この相国寺があった塔之段町のすぐ北側には「毘沙門町」という地名も見えます。
その毘沙門町こそが、天台宗の宗祖伝教大師最澄さまが建立した「出雲寺」の、しかも自らが刻まれてご本尊とした「毘沙門天像」を祀ったお堂、つまり現在の「毘沙門堂門跡」の元となったお堂が建っていたと云われる場所なんですね。
元々出雲寺も上御霊神社から当時の遺物が発掘されるほどの大伽藍を誇っていたと思われますが、なぜ最澄さまがこの地に毘沙門天像を祀り、出雲寺を建立したのかはわかっていませんでした。

先日、平成の修復を終えた毘沙門堂門跡の本堂

正面入り口の額にははっきりと「出雲寺」と掲げられている
しかし今となっては「仏の結界」の中心ラインを走るライン上に「仏の外護者」である毘沙門天を祀るために出雲寺を建立したとはっきりと建立理由が言えます。
ちなみにこの出雲寺には、平安京を造立するためにつくられた朝廷と山城の二大豪族による「三大大社の結界」の下鴨神社から松尾大社にかけてのラインも通過しています。
そもそも出雲寺という名称は、古くからこの地を支配していた「出雲氏」から来ているらしいんですが、こうやってほぼ毎日京都の地図とにらめっこしていると、どうも下鴨神社の位置とこの出雲氏一族の支配地域が近すぎるような気がするのです。本当に川一つまたいだだけの数10メートル離れているだけですから。
どうもなぜ上賀茂・下鴨神社と賀茂氏の氏神が二つに分かれているのか、何らかの理由はありそうですね。
今のところ本編とは少し飛んでしましますので、またじっくり研究して報告したいと思います。
話がすっかり飛んでしましましたが、つまり、義満が出家をした理由は、先ほどの「明の皇帝に日本国王と認めてもらう」という点と、またそれ以上に、出家し仏教の最高位の「法皇」となることで「仏の結界」パワーすら、自らの所有物にしてしまおうと画策した上のことではないでしょうか。
「馬鹿げたこと」とおっしゃるかもしれませんが、井沢氏も常からおっしゃっている通り「日本の学者は宗教的な側面をあまりに軽視しすぎている」のです。
私も以前から提唱しています通り、当時の日本では仏教こそが最高の科学であり、そのツールを使いこなすものこそが、今で言うところの最高の「科学者」であり「医学者」であった訳なんです。つまり最澄さまや空海さんは、ある意味では米国からITの技術を学んで帰っきたソフトバンク社の孫社長や「IPS細胞」を発見した山中京大医学部教授のような存在であったと言っても過言ではないでしょう。
つまり、義満は当時最先端の科学力の結晶である「仏の結界」。その中心を通る線上に造立された出雲寺を手に入れ、相国寺の大伽藍を造立。そしてその権力の象徴であるシンボルタワーすなわち七重の塔を建立したのではないでしょうか。
とにかくすごい野心家ですね。(^_^;)
武家の棟梁として生まれただけにとどまらず、太政大臣という公家社会の頂点にも立ち、天皇の位ばかりか仏法つまり「仏の結界」まで、まさしくこの世のすべてを手に入れようとしていたのですね。
しかし結局は、井沢氏の説では義満は暗殺されてしまうみたいです。
発するエネルギーが強すぎたのでしょうね。
まぁ誰に暗殺されたかは私にとってはどうでもいいことなのですが、こと七重の塔の放火犯に関しての黒幕については、私は、「天台及び真言宗」の「仏の結界」を護る僧侶であったのではないかと確信しています。
それはなぜか?
そもそも、「仏の結界」が張られた大前提は、「皇室の万代にわたる繁栄を祈願する」ことで平安仏教の若手集団が、朝廷(天皇)より厚い庇護を受けるという契約だったはず。
まだ怨念対する信仰が最先端科学の当時では、契約違反はすなわち即怨念による「呪い」をかけられてしまうことになります。
そのためにも、これ以上義満に踏み込まれてはいけないラインがあったのではないでしょうか?
とにかく義満が相国寺を造立した裏側には、「この世の全てを手に入れる」といったとてつもないほどの壮大な野望が隠されていた訳なんですね。
このあらゆるものを手に入れようとする義満が「仏の結界」を手に入れるために行った事柄はまだまだあります。
次回もそのあたりを掘り下げて義満が手に入れようとしていた「パワースポット」を紹介していきたいと思います。
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