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本当に癒される京都のパワースポット研究⑫仏の結界編~足利義満の野望~

 さて、前回のパワースポット研究⑪大文字山の秘密では、「大文字山送り火」の起源と、大文字山の「大」の字が向いている方向について徹底検証しました。

 そして、一般的に「大文字の送り火は、室町幕府9代将軍の足利義政が始めたため、「大」の字は足利家の私寺である相国寺の方向を向いている」と云われている定説を根底から覆し、大文字山は「平安新仏教」の頭脳集団による「仏の結界」として存在する説」を提唱しました。

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京都の中心地に威風堂々とたたずむ相国寺の法堂(ほっとう)


 その根拠として、

 ○「仏の結界の三角形の線上に大文字山の「大」の字がピッタリはまる」

 ○「「大」の字の中心にある祠には弘法大師空海が祀られ、また麓にはかつて浄土寺という天台宗にとって非常に重要な大伽藍が建立されていたこと。また、銀閣寺はその伽藍跡に建てられている」

 ○「大文字の送り火は、浄土寺が廃れた後にその流れを汲み浄土門によって建立された浄土院の檀家が世襲で取り仕切っている」

 ○「「大」の字は、相国寺の方向を向いているのではなく、神護寺の方向を向いている」

 と、この4つの根拠を示したわけですが、まだまだそれだけでは疑ってられる方も多いことだろう思います。

 そこで今回の「本当に癒されるパワースポット研究⑫仏の結界編~足利義満の野望~」では、なぜ「大」の字は相国寺に向いていると云われ始めたのかを、「仏の結界」を用いて証明し、その裏に隠された室町幕府足利将軍家の野望について検証していきます。


 まずは、下の図を見て下さい。

金閣寺

 この図は「仏の結界」において、大文字山の「大」の字から出発神護寺に向かう、いわばかつての「三大大社の三角結界」で言う「将軍塚のライン」の役割を果たすラインの図なのですが、このライン上には、銀閣寺、相国寺、鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく・いわゆる金閣寺)がピッタリと当てはまるのが見えますか?
(銀閣寺に関しては、地図の中に入りきらなかったため、前回の地図を参考にしてください)(^_^;)
 
 銀閣寺の場合元々が浄土寺の大伽藍があった場所なので、現在地とは少々の誤差がありますが、あとの2つの寺院はピッタリとはまっているはずです。

 この3つの寺院は、3寺院とも足利将軍家建立による私寺で、すべて現在「臨済宗相国寺派」(りんざいしゅうしょうこくじは)に属します。しかも「金閣」「銀閣」寺とも「院外塔頭」という相国寺の外に建てられたいわば「飛び地」のようなもので、この3寺院は身内同然に結ばれています

 このことから見ても、もはや偶然という言葉では言い逃れることはできないでしょう。

 しかし、それでも疑ってかかる頭の固い読者のあなたに驚愕の事実を教えます。

何とこの3寺院の建てられる以前には、それぞれの場所には

 銀閣寺=浄土寺(天台宗寺院・恵心僧都らにより二十五三昧会が催され、現在の「お葬式」の原型を形作る。浄土門(南無阿弥陀仏を唱える宗派)の聖地)

 相国寺=出雲寺(天台宗寺院・伝教大師最澄さまが自ら刻んだ「毘沙門像」(びしゃもんぞう)を本尊にする。後の毘沙門堂門跡)

 金閣寺=曼殊院門跡(天台宗寺院・代々北野天満宮の別当(べっとう・実際に天満宮を管理運営する役職。)を務める門跡寺院)

と、そのすべてが天台宗最重要寺院の跡地に建立されており、その中には現在の天台宗においても最も上位とされる五箇室門跡(ごかしつもんぜき)が、5寺院のうち2寺院も入っています。

 ここまで実証を挙げるともう疑う余地はないでしょう。(^-^)


 つまり、室町幕府の足利将軍家は平安時代前期に仕掛けられた「仏の結界」の存在に気づき、かつての道元日像と同じようにそれを利用しようとした訳なんです。

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相国寺の総門 寺院内は当時の絢爛豪華さもすっかり息を潜め、同志社大学生の憩いの場となっている。


 
 そもそも室町幕府は、歴史上に存在した3つの幕府のうち、唯一平安京で幕府の中心を構えました。
そのためか、平家と同じように公家へと近づいてゆき、3代将軍足利義満(あしかがよしみつ・1358~1408年)の代にもなると都の主である天皇の位にまでその触手を伸ばそうとしてきます。

 義満は、室町幕府第3代将軍(在職1368~1394年)として南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立すると共に、鹿苑寺金閣を建立して北山文化を開花させるなど室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いたとされます。

 将軍と太政大臣という武家と公家の頂点にに上り詰め、その栄華を極めた義満が次に手に入れようとしたものは天皇の位だったと作家の井沢元彦氏は、著書『天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー 』(小学館文庫)の中で、語っています。

 また、出家して法皇となった義満は、天皇を凌ぐ己の権力を見せつけるため、天皇のおわす御所の真横相国寺を造営します。

 その大きさたること境内が約140万坪。南は一条通りから北は現在の上御霊神社、東西至っては、現在同志社大学がある烏丸通りから賀茂川まで達したそうで、その内部には約50の塔頭寺院が建っていたそうです。

 比叡山では観光案内の人が、よく「野球場は大体1万坪くらい」と説明されていますので、平安京のド真ん中に野球場140個分とでも言いましょうか(ちなみに比叡山延暦寺の境内は500万坪と云われています)。

 あまつさえその境内に、その建築以降500年以上も記録を破られる事のない日本の歴史上最高の高さ(約109メートル)を誇る「相国寺七重の塔」を建立したそうです。

 しかし、あまりにも天皇に対する不遜のためか(現在でも皇居付近では、皇居を見下ろすことになる程の高さの建造物は暗黙の了解で建てられることはないらしいです)、七重の塔は2度も放火に遭い、一度は義満自ら再建しますが、再びの放火後3度建てられることはなかったそうです。

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禅寺ならではの鐘楼 となりには有名な「宗旦稲荷」がある


 一般的に義満が出家した理由については、義満が当時の中国である「明」日明(勘合)貿易を希望した折、明の皇帝は「明が認めた日本の国王は「天皇」なので、その臣下である義満とは直接話をすることは無い」と突っぱねられたそうです。

 義満はその打開策として、出家をすることで天皇の臣下の籍から脱し(お坊さんになることで身分制度から外れ、誰とでも対等に付き合えるようになるんです)、「法皇」称号を得ることで、明の皇帝より「日本国王」と認められ、直接交渉をを承諾してもらい、日明貿易を始める事ができたそうです。

 そしてその勢いと潤沢なる資金で幕府の基盤を揺るぎなきものとし、先に述べたような朝廷(天皇)をないがしろにするような暴挙に出たということなんですが、


 しかし私が思うには、どうも義満が望んだのは天皇の位だけではなく、「仏の結界」のパワーそのものだったかもしれないですね。

 その証拠に、先ほど述べた相国寺の七重の塔が建っていた場所なのですが、この地点は現在でも「塔之段町」という地名で残っています。

 重要なのはその地点です。下の図をみてビックリしてください。

相国寺③


 どうですか?(^ω^) ビックリしてもらえましたか?


 そう、何と相国寺の七重の塔は、かなりピンポイント「仏の結界」大文字山から神護寺へとつながるライン上に建っていた訳です。

 つまり相国寺の七重の塔というのは、義満が御所をを見下ろすのみならず、自らが「仏の結界」を征したシンボルとして建てられたのではないでしょうか。
 むしろ、位置的に考えても「仏の結界」のシンボルタワーとして建立したと考える方が自然ですよね。


 ちなみにこの相国寺へは、京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」で下車します。

 地上に上がってくると同志社大学今出川キャンパスがありますので、京都御所を向かいに見ながら今出川通りを東に5分ほど歩きます。

 同志社大学と同志社女子大学の間にある「今出川御門」の前の通りまで来ると左へ曲がります。すると、すぐに相国寺の総門が見えますので、非常にわかりやすいですよ。

 境内は、大きな通りから少し離れているうえ、境内は出入りが自由になっていますので、騒音がほとんどなく、地元の方々や同志社大学の学生たちが楽しそうに憩い、法堂や宝塔がすぐ目の前にある京都ならではの公園的情景に誰もが心を癒されることでしょう。

 車で行かれる場合は、京都御所烏丸中立売の駐車場がお勧めです。駐車料金3時間で500円ですし、駐車場から御所の白塀や清所門を愛でながらの散歩は、本当に癒されます。私もよく御所に散歩にいきますが「京都に生まれて良かったなぁ」と思える瞬間です。また、この駐車場からなら15分くらいで相国寺まで行けますよ。(^_-)



 話を戻しますが、この相国寺があった塔之段町のすぐ北側には「毘沙門町」という地名も見えます。

 その毘沙門町こそが、天台宗の宗祖伝教大師最澄さまが建立した「出雲寺」の、しかも自らが刻まれてご本尊とした「毘沙門天像」を祀ったお堂、つまり現在の「毘沙門堂門跡」の元となったお堂が建っていたと云われる場所なんですね。

 元々出雲寺も上御霊神社から当時の遺物が発掘されるほどの大伽藍を誇っていたと思われますが、なぜ最澄さまがこの地に毘沙門天像を祀り、出雲寺を建立したのかはわかっていませんでした。

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先日、平成の修復を終えた毘沙門堂門跡の本堂

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正面入り口の額にははっきりと「出雲寺」と掲げられている

 しかし今となっては「仏の結界」の中心ラインを走るライン上に「仏の外護者」である毘沙門天を祀るために出雲寺を建立したとはっきりと建立理由が言えます。

 ちなみにこの出雲寺には、平安京を造立するためにつくられた朝廷山城の二大豪族による「三大大社の結界」下鴨神社から松尾大社にかけてのラインも通過しています。

 そもそも出雲寺という名称は、古くからこの地を支配していた「出雲氏」から来ているらしいんですが、こうやってほぼ毎日京都の地図とにらめっこしていると、どうも下鴨神社の位置とこの出雲氏一族の支配地域が近すぎるような気がするのです。本当に川一つまたいだだけの数10メートル離れているだけですから。

 どうもなぜ上賀茂・下鴨神社と賀茂氏の氏神が二つに分かれているのか、何らかの理由はありそうですね。
今のところ本編とは少し飛んでしましますので、またじっくり研究して報告したいと思います。


  話がすっかり飛んでしましましたが、つまり、義満が出家をした理由は、先ほどの「明の皇帝に日本国王と認めてもらう」という点と、またそれ以上に、出家し仏教の最高位の「法皇」となることで「仏の結界」パワーすら、自らの所有物にしてしまおうと画策した上のことではないでしょうか。

 「馬鹿げたこと」とおっしゃるかもしれませんが、井沢氏も常からおっしゃっている通り「日本の学者は宗教的な側面をあまりに軽視しすぎている」のです。

 私も以前から提唱しています通り、当時の日本では仏教こそが最高の科学であり、そのツールを使いこなすものこそが、今で言うところの最高の「科学者」であり「医学者」であった訳なんです。つまり最澄さまや空海さんは、ある意味では米国からITの技術を学んで帰っきたソフトバンク社の孫社長「IPS細胞」を発見した山中京大医学部教授のような存在であったと言っても過言ではないでしょう。

 
 つまり、義満は当時最先端の科学力の結晶である「仏の結界」。その中心を通る線上に造立された出雲寺を手に入れ、相国寺の大伽藍を造立。そしてその権力の象徴であるシンボルタワーすなわち七重の塔を建立したのではないでしょうか。

 とにかくすごい野心家ですね。(^_^;)

 武家の棟梁として生まれただけにとどまらず、太政大臣という公家社会の頂点にも立ち、天皇の位ばかりか仏法つまり「仏の結界」まで、まさしくこの世のすべてを手に入れようとしていたのですね。

 しかし結局は、井沢氏の説では義満は暗殺されてしまうみたいです。
 発するエネルギーが強すぎたのでしょうね。

 まぁ誰に暗殺されたかは私にとってはどうでもいいことなのですが、こと七重の塔の放火犯に関しての黒幕については、私は、「天台及び真言宗」の「仏の結界」を護る僧侶であったのではないかと確信しています。

 それはなぜか?

 そもそも、「仏の結界」が張られた大前提は、「皇室の万代にわたる繁栄を祈願する」ことで平安仏教の若手集団が、朝廷(天皇)より厚い庇護を受けるという契約だったはず。

 まだ怨念対する信仰が最先端科学の当時では、契約違反はすなわち即怨念による「呪い」をかけられてしまうことになります。

 そのためにも、これ以上義満に踏み込まれてはいけないラインがあったのではないでしょうか?

 とにかく義満が相国寺を造立した裏側には、「この世の全てを手に入れる」といったとてつもないほどの壮大な野望が隠されていた訳なんですね。

 このあらゆるものを手に入れようとする義満が「仏の結界」を手に入れるために行った事柄はまだまだあります。
 次回もそのあたりを掘り下げて義満が手に入れようとしていた「パワースポット」を紹介していきたいと思います。



大きな地図で見る
 


 

 
 
 
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本当に癒される京都のパワースポット研究⑪仏の結界編~大文字山の秘密~

 秋の行楽シーズンを迎え、さすがに12月中旬までバタバタと仕事の予定が詰まってきました。
その上、成り行きで少年野球のコーチまで引き受けてしまったので、これからはなかなか思うようにブログの更新ができなくなってしまうかもしれません。

 まぁ私の生きた証として、生涯の後半をかけ、じっくりと「京都のパワースポット」を研究して行きたい思っておりますので、ボチボチとやっていきます。

 プロフィールの欄でも触れましたが、私は古都「京都」における「本物のパワースポット」を皆さんに紹介をして行くつもりで、ブログを始めました。
 そのためにも、他の方々のブログや旅行雑誌の特集等で、何の検証もせずに、ただ垂れ流している「まやかし事」に近いような「パワースポット」の紹介ではなく、その成り立ち一つ一つを徹底的に検証し、わざわざ遠い所から京都にお越しいただいたみなさんに納得してお参りいただき、パワーを貰って帰れる一助となるような研究を、続けて行きたいと思っています。

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大文字山の「大」の字の中心あたりから京都の街を見下ろす。京都市街が一望できる京都一の絶景の場所です



 さて、本来なら伏見編の後半として、前回ご紹介した極楽寺跡に建立された寺院を紹介したかったのですが、

 以前から温めていた「仏の結界」について、大文字山に登り直接検証した来たおかげで、確信を持つことができたので、あまりの嬉しさから、先にこちらの方を皆さんにお話したくなったため、ぬさもとりあえず紹介したいと思います。


 私は以前「パワースポット研究⑥」の将軍塚編の中で、「なぜ桓武天皇は山背の国を一望できる如意ヶ嶽(にょいがだけ・大文字山の正式名称)を王城鎮護のための将軍塚に選ばずに、大文字山より眺望の劣る東山山頂を選んだのか?」と疑問を抱いていた事は、このブログをご愛読の方ならすでに理解して頂いていると思います。わからない方は、「本当に癒されるパワースポット研究⑥将軍塚編」をもう一度読んで見てくださいね。(^_-)

 まぁでもやはりと言うか、素人の私にでもわかるほどの眺望の良さに、もちろん目を付けた人物がいた訳ですよ。
 
 その方が、最澄さまだったのか、空海さんだったのかどちらだったのかはわかりません。

しかし、平安新仏教の頭脳集団がこの山に目を付けたのは間違いないと思います。

 

 そんな訳で、今回の「本当に癒されるパワースポット研究⑪仏の結界編」
われわれ京都人が普段から何気なく目にしており、また年に一度の「五山の送り火」(大文字焼き)においては、全国より8万人の観光客が訪れる「大文字山」に隠されていた京都最大のミステリーを「仏の結界」の法則を使って解き明かしてみようと思います。

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今年の大文字焼きの様子。この時にはまだ、大文字焼きにこのような秘密があったとは思いもしていなかったです



 古都の京都の夏を彩る風物詩と云われ、全国から毎年8万人もの観光客が訪れる「大文字焼き」。
以前のブログにおいても、この五山の送り火について書かせていただきましたが、本当にこの日の京都は人が溢れかえります。

 しかしこの「大文字焼き」、京都の4代行事に数えられ、これほど有名なのにもかかわらず、いつから行われているのか、どういう理由で行われているのかというのは、全くと言っていいほどわかってないんです。(^_^;)
 
 ひょっとすると京都で一番のミステリーって、実はこの大文字焼きかもしれないですね。

 この大文字焼きの起源に関して、有力な説は2つあります。

 一説は、室町幕府の9代将軍である足利義政(あしかがよしまさ)が、我が子義尚(よしひさ)の死を痛み、足利家の私寺(個人で建てたお寺)である相国寺(しょうこくじ)の僧侶、横川景三と芳賀掃部に「大」の字を描かせたというもの。なので「大」の字は、相国寺の方向を向いている(御所から今出川通りをはさんだ、同志社大学の北側)という説。

 もう一説は、弘法大師空海さんが書いたという説です。


 空海さんが書いたという説の詳細は、「大」の字のちょうど中央の要の部分に「弘法大師」と書かれた祠(ほこら)があり、その祠に祀られている空海さんが平安京を見護っているというのが理由らしいですが、この祠の存在一つでは今ひとつ決めてに欠けるため、今のところ、一般的には「足利義政」の説が定説になっていますね。
 ちなみに昭和30年の京都新聞では、起源はこの「足利義政」との説をとっているらしいです。

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「大」の字の要の部分にある、弘法大師空海さんを祀る祠

 これほど、謎だらけの大文字焼きですが、私の提唱する「仏の結界」の定義に当てはめ、いつもの三角形の地図に当てはめると案外簡単に謎が解けてしまったんですね。
 
 「百聞は一見に如かず」まぁ下の図を見て下さいな。

大文字山

 以前から私が提唱している「仏の結界」延暦寺、神護寺、極楽寺といったそれぞれの頂点を結んだ三角形の中から、延暦寺~極楽寺を結んでいるラインがあるのが見えるでしょうか?

 そして、ちょうどそのライン上にの真ん中あたりに如意ヶ岳、いわゆる大文字の「大」の字がきていることにきづきましたか?
 真ん中の大文字からでた線は、「仏の結界」をかたち作る三角形の中心へと伸びていっています。


 また、この三角形のほぼ真ん中を通る線はどっかで見たことがないですか?

将軍塚


 そうその通り!「三大大社の三角結界」における「将軍塚」の位置関係によく似ていますよね。

 つまり、この京都市内のほとんどの場所から見ることのできる巨大な「大」の文字は、「仏の結界」における、「将軍塚」の役割を果たしているわけなんです。
 さしずめ中央部分の祠は「仏の結界」の「将軍像」という位置づけで建てたのでしょう。


 となると、定説である「足利義政」説は、アボーンΣ(゚д゚lll)してしまう訳で、空海さん説が正しいという実証になってしまいます。

 しかし、この地図だけでは疑う方も多い事でしょう。確かにたまたま偶然に、延暦寺から極楽寺にかけてのライン上に「大」の字があるだけかもしれないですからね。

 そうなると実際に登頂してみて検証するしかしょうがない。そんな訳で、休日を待ってチャリンコをすっ飛ばして行ってきました。

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「銀閣字道」バス停から銀閣寺へと向かう途中、山村美紗の小説でご存知の「哲学の道」から見た大文字山


 大文字山山頂へは、徒歩でしか行けません。

 バスや公共機関、並びにマイカーなどを使い、まずは銀閣寺までいらしてください。

 バスの場合市バス「銀閣寺道」バス停から徒歩で15分くらい。マイカーですと市営の駐車場があり1日800円で停められます。そこから同じく15分くらい歩いてください。
 
 参道はお土産物屋さんで溢れていますので、思っているより早く着いてしましますよ。(^-^)

 銀閣寺(正式には慈照寺銀閣)の総門までくると、並み居る人ごみを後に左へ折れ曲がります。
そこからすぐに右に折れると、あっという間に山道に入りますので、まず道に迷うことはありません。

 山頂へは成人男性で30分もあれば辿り着きます。男女のペアでスニーカーに近いクツだったら休憩しながらでも1時間かかりません
 京都で一番の眺めを見たい人は、銀閣寺にいらしたついでにチャレンジしてみてはいかがでしょうか?京都市街全体を間近で見下ろせる場所はここ以外には無いので、本当にお勧めですよ。
 
 スポンサーが付かないので、観光雑誌には絶対乗らないマメ情報でした。o(^o^)o


 さて、私の場合トレーニングも兼ねていたので、約20分ほどで「大」の字まで辿りつきました。
台風一過の晴天を期待していたのですが、今回の台風は過ぎ去った後にも天気に影響を与えていたらしく、雨がポツポツと降ったり止んだりしていました。

 辺りには、大文字焼きの時に薪を燃やす火床が作られていますが、あまりに近すぎて全然「大」に字には見えませんね。とにかく景色が絶景です。IMG_2097.jpg



 私は、登山の本当の目的である「大」の字の中央にある祠へ向かい、いつものように携帯のコンパスアプリを起動させました。

 なるほど、確かには京都大学から相国寺の方向正面に向いていました。
 しかし、その先に目をやってみると…何とその延長線上には左大文字の「大」が見えます。私はおもむろにコンパスアプリを地図アプリに換えて真正面を向きました。するとこの祠から相国寺を通ったその先にあったのは…


 何と、その延長線上には神護寺があったのです。

 もう一度先ほどの「仏の結界」の地図を見てもらえるとわかっていただけると思いますが、大文字からでた線は三角形の中心付近にある相国寺を通り過ぎ、神護寺へとつながります。つまりこの「大」の字の正面は実は神護寺の方向を向いており、相国寺はその通過点に過ぎないのです。

 私は、とにかく興奮してきて京都の街を眼下に思わず「やった~」と叫んでしましました。
 兎にも角にもこの瞬間に、「大文字」が足利将軍家では無く、空海さんや最澄さまを始めとした「平安新仏教」の頭脳集団によって創られたことが証明された訳です。

 贔屓目に足利将軍家が「大」の字を書かせたとしても、それ以前にこの地には「空海」さんの祠を将軍塚に見立てた「聖地」があり、それが神護寺の方向を向いていたことは間違いないでしょう。

 それにしても、最近「仏の結界」に対して私の推理した内容が、三平一平氏の手による「印籠つなぎ」の釣竿のようにスコンスコンとはまって行きます。
 非常に嬉しいことですが、もともとこの大それた計画を画策した人物がいたとして、その後をなぞっているのですから、はまって当然かとも思いますね。

 さてそうすると、

 なぜ?「大」の字の正面は相国寺を向いているのか?
 なぜ祠に祀られているのが最澄(天台宗)さまではなく、空海(真言宗)さんなのか?


 必然的にこの二つの疑問が生まれて来ます。

 相国寺の方向へ「大」の字の正面が向いているという件は、説明が非常に長くなってしましますので、次回にまたお話したいと思いますが、間違いなく言えることは「大」の字の正面は、相国寺では無く神護寺に向いているということです。相国寺はあくまでもその途中にあるだけということです。

 あともう一つの、「なぜ最澄さまでは無く、空海さんなのか?」という疑問ですが、

 この大文字山の麓(ふもと)一体には、現在銀閣寺(慈照寺銀閣)の伽藍が建立されていますが、この慈照寺は、もともと天台宗の寺院である浄土寺の伽藍跡に、前出の「足利義政」によって建立されたものなんです。
 その浄土寺の大きさたるや、今の慈照寺を含めた大文字山の麓付近一帯が全て境内だったと云われています。今でも付近一体は、かなりの広範囲にわたり浄土寺町という名称が残り、当時の名残を留めています。

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慈照寺(銀閣寺)の総門のすぐ隣にある浄土院(本当に真横にあります)


 浄土寺内では、かの高名な陰陽師安倍清明(あべのせいめい)と兄弟弟子にあたる慶滋保胤(よししげやすたね・このよししげが陰陽師の跡を継がなかったため、賀茂氏が代々専従してきた陰陽道が安倍氏の専従へと引き継がれることとなった)や、浄土門(現在の浄土宗や浄土真宗)開宗の元となった『往生要集』(おうじょうようしゅう)を著した恵心僧都源信(えしんそうずげんしん・悪いことをすると地獄へ落ちるという発想はこのお坊さんが広めた)などの高名なお坊さんや学者が集まり、現在のお葬式の元となった二十五三昧会を設立し、互いに学問の研鑽をおこなっていたとの記録が残っています。

 つまり浄土寺はお葬式発祥の地であり、天台宗にとってかなり重要な寺院が、大文字山の麓にはあった訳なんです。

 これは、以前から私が言っています通り、最澄さまと空海さんの絶妙なコラボレーションにより、「仏の結界」は山上の祠で真言宗が、山下の浄土寺で天台宗が担当していたことの証だと思います。
 そうして平安京を護る聖地を両方の宗派で管理していたのでしょう。

 その後、浄土門徒の概念の基礎が形成される元となった浄土寺は、「仏の結界」が忘れ去られていくのと同時進行でどんどん寂れて行きました。
 そして浄土門の聖地としての「名跡」だけが残され、時代と共に浄土宗の寺院浄土院となったんだと思います。

 その証拠に、今では慈照寺銀閣にほとんどの社領を取られ、総門の真横にポツンとたたずむ浄土院ですが、大文字焼きは、この浄土院の檀家さんが全て取り仕切り、しかも世襲で執り行っているそうです。

 本当に大文字焼きが足利義政の指示で始められたのであれば、浄土院の檀家でなくても良かったはずではないでしょうかね。

 

 今まで何気なく目にしていた大文字山ですが、1200年も前に、こんなに深い思いの元で創られたものだったとは思いもしませんでした。
 仏の結界で1千年以上にわたり平安京を護り、年に一度だけ送り火の炎で京の都を照らす、まさに全ての都人が、仏さまに抱かれる安心感に満ち溢れる事が出来る最高のパワースポットでしょう。

 来年から、大文字焼き眺める際には、いにしえから京の都を護っている「仏の結界」の大イベントとして見ることで、過ぎ行く夏をより一層慈しんだ気持ちで精霊(しょうらい)さんたちを見送りたいと思いますね。

 
 長々と大文字のお話をさせていただきましたが、次回は「仏の結界」と「相国寺」、そして「足利将軍家」の関係についてお話ししたいと思います。



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パワースポット研究⑩「仏の結界編」~伏見区の意外な事実~後編①

 さて、前回までのお話では、「神護寺」、「延暦寺」を三角形の各頂点とした「仏の結界」を結ぶためには、京都市伏見区に深草あたりに、当時の伏見の地を代表するような大寺院が不可欠だと問題提起し、その検証をしたわけです。
 
 その結果、やっぱりと言うか、私の思った通り、この深草の地には実質的に日本の政治を「支配」していた「藤原」氏の本流「藤原北家」の「棟梁」である「藤原基経」(ふじわらもとつね)が祈願し、その嫡子である「時平」(ときひら)により建立された「極楽寺」の大伽藍(だいがらん)が、その栄華を威風堂々(いふうどうどう)と誇っていたそうです。

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現在、極楽寺跡に建つ「宝塔寺」の本堂。伏見の街並みを眼下に見下ろせる本堂内には、喧騒を忘れられる静けさと、心地よい風が吹き抜ける。


 その境内は、現在極楽寺跡に現存する「宝塔寺」(ほうとうじ)がある「七面山」(しちめんざん)を含めた今の極楽寺町全体にわたる壮絶な規模で、近郊に点在する「瑞光寺」(ずいこうじ)や「嘉祥寺」(かしょうじ)「善福寺」(ぜんふくじ)などもそのほとんどが、極楽寺の堂宇跡に建立されているそうです。

極楽寺境内
前回に使用した「仏の結界」の図を拡大し、当時の極楽寺境内の予想図と、現在近郊に点在する寺院の配置を重ねてみました。
見事に「仏の結界」を示す「三角形」の内の「一つの頂点」の予想位置と一致しますよね。(^_-)



 そもそもこの地は、「仏の結界」が計画される遥か以前より、奈良(大和)方面から京都(山背の国)へと至る「伏見口」と云われた交通の要所でした。

 京都と言う地は、そもそも地底深くに「琵琶湖の水量」に匹敵する程の豊富な地下水が埋蔵されている非常に水利に優れた土地で、当時の平安京市街などは、あちこちで湧水が「ボッコンボッコン」湧き出ていたそうです。

 そのおかげで、京都は他の地域に比べて、干ばつによる「渇水」の難が少なく、都の内部は井戸と下水道が完備されており、人々は下水道を家の中に引き入れた「水洗トイレ」の恩恵にまで預かっていたそうです。ちなみに「御所」の内部には今でも100を越す井戸があります。

 そして「平安京」から地下から湧き出し流れ出た水と「琵琶湖」から流れてきた水により、京都南部には巨大な「巨椋池」が形成されていました。
 この巨椋池は、戦後に干拓されるまであったので、巨椋池から山科川を遡上してきた「醍醐」地域に先祖代々住んでいた私の父などは、子どものころの記憶に残っていると言っておりました。

 つまり、この巨大な「巨椋池」があったため、奈良から京へは必然的にこの「伏見口」を通らないと上洛できないのです。
 よって当時は、日本の1、2位の大都会を往来する「天下一」の街道として、伏見口には人々が溢れていたと想像できますね。

 しかし、これほど往来するたくさんの人々の「気」が集まっていた場所が、三角形をなす「結界」の中の一つの頂点になるなんて、「最澄」さまが坂本に生まれ育ち、京都の「鬼門」を護る「比叡山」に登られたのと同じくらいの「奇瑞の勝縁」ですよね。この「地の利」とそれを活用出来る「天才の出現」の一致は、まさしく「仏」さまだけがなせる技なのかもしれませんね。(^-^)


 またまた前置きも長くなりましたが、

 今回の「パワースポット研究⑨仏の結界~伏見区の意外な事実~」の後編①は、
具体的に、その「極楽寺」跡に現存する代表的な寺院をいくつか紹介していきたいと思います。

 まずは、その中心的な寺院である「深草山宝塔寺」


 
 この宝塔寺が平安時代に「関白」(かんぱく・天皇に変わり政務を執る)藤原基経の子「時平」により創建された当時は、この寺院は「真言宗」の寺院として「極楽寺」と名乗っておりました。

 つまり弘法大師「空海」さんを「開祖」とする宗派「真言宗」の寺院だった訳です。
 これは当時、平安京の「表鬼門」の延暦寺と「裏鬼門」の石清水八幡宮寺を「天台宗」により護られていたため、全く相反する都の「北西」を神護寺、「南東」をこの「極楽寺」にかけて護るという非常に「公平な」結界で、以前からお話ししている、「最澄」さまと「空海」さんの絶妙なコラボレーションの結果から生み出された構図だと思います。

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宝塔寺総門前に残る極楽寺の「礎石」。この地に確かに「極楽寺」が建立されていたことを、平成の世において無言で物語る。


 時が下がって鎌倉時代となり、一人の僧侶が平安時代の雅な様相もすっかり寂れてしまったこの寺院に現れ、草庵を結びます。

 その僧侶こそ曹洞宗の「開祖」である「道元禅師」

 道元はこの極楽寺内に「深草安養院」(ふかくさあんよういん)を結び、布教活動の拠点とします。「安養院」の遺構などは発見されていませんが、江戸時代の「面山瑞法」という江戸時代の坊さんは、安養院は極楽寺の別院と断じておられるようです。
 
 安養院へは、時を追うごとに道元を慕う人々が続々と増え始めます。修行道場の必要にせまられた道元は、極楽寺内に興聖宝林寺(興聖寺・こうしょうじ)を建立したそうです。

 ここで『典座教訓』や『正法眼蔵』の中の「現成公案」をはじめ各巻を仕上げ、また、かっては道元に論争をしかけた「懐奘」(えじょう・『正法眼蔵随聞記』著者で永平寺第二代住持)たち日本達磨宗の集団入門などもあり、教団としても次第に体裁を整えていったそうです。

 34歳から44歳までの10年間をここ興聖寺で過ごした道元は、受戒の弟子がついに2000越え、それを「機」と捉えた道元は、洛中の「六波羅蜜寺」(ろくはらみつじ)へと拠点を移していきます。


 それから数十年経ち、再び寂れてしまったこの寺に、今度は、京都で布教活動を行っていた日蓮宗の僧侶が一人辿り着きました。

 その名も日像(にちぞう)上人

 この日像は、当時の極楽寺の住職の「良桂」(りょうけい)と数日に渡り法論を繰り返します。

 良桂は日像にすっかり感服し、極楽寺の宗派を日蓮宗に改めるとともに寺名を「宝塔寺」と変え、ついに「極楽寺」の寺名は消滅してしまったそうです。



 私は、寺伝でこの2人の高僧のエピソードを読んだ時「パッ」と頭に「この二人のお坊さんは、この寺がこの地に建立された本当の意味を解き明かしたのだなぁ」と思いました。

 
 道元はもとより、日像も日蓮宗の開祖「日蓮上人」から京都での布教の責任者として直接選ばれたような人物。二人は「仏の結界」の存在を何らかの形で知り得たのでしょう。だから「何がなんでも」この寺院を手に入れたかったのだと思います。

 がしかし、この二人の行動に気付いた「天台」「真言」など各宗派の僧は、何度も妨害を繰り返し、日像に至っては、結局一度もこの「宝塔寺」に住むことは出来なかったそうです。

 まぁ私の考えでは、平安京を「仏の結界」で護るとの自負がある、天台・真言の僧侶たちにとっては、いかに極楽寺が寂れたとはいえ、当寺まだ「新興宗教」の域をでない二つの宗派がこの地に根を張るのことを認めることは難しかったのではないでしょうかね。(^_^;)

 しかしともかく、これだけ成り立ちの血統も良く、大伽藍を誇った寺院であり、且つ天下の高僧たちとの交わりが深いに関わらずどうして人々の記憶から消し去られてしまったのですかね。

 何か大きな意図を感じざるおえません。非常に残念です。

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宝塔寺の壁には「定規筋」が入る。朝廷とそれほど密接な関係を持たないこの寺院で、最高格の「五本筋」が入るのは異例の事。この寺院が「仏の結界」の「パワースポット」であることを証明しているのではないでしょうか。



 さて、この宝塔寺は、伏見稲荷大社を南へ15分ほど歩いたところにあり、京阪電車「深草駅」から歩いても10分ほどの距離の所、立命館中・高校キャンパスのすぐ隣にあります。
 付近に駐車場などがないので、(檀家さんがお墓参りに来られた時用の駐車場はありますが)できれば、伏見稲荷にお参りにこられた時に、少し足を伸ばして同時にお参りされる事をおすすめします。(^-^)
 
 伏見口として人々で溢れかえった往来も、今ではすっかり昔の隆盛も影を潜め、境内は非常に静か、自由に拝観もできます。
 旧街道から総門(重要文化財・室町中期建立)をくぐると、一直線のなだらかな石畳の参道が仁王門まで続き、参道両側に塔頭が建ち並びます。

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栄華を極めた「天下一の往来」も今は昔。近所の立命館の学生たちだけが足早に「総門」の前を通り過ぎていきます。

 仁王門は近年修復されていることで、艶やかな朱。中央に橘紋を描いた赤い提灯が吊下がり、頭上の天井板約250枚の一枚一枚には色鮮やかな牡丹の花が描かれています。

 仁王門をくぐると正面が本堂(重要文化財)で、江戸初期の慶長13年(1608)の創建され、日蓮宗の本堂では最古のものとされ、ご本尊の釈迦如来(しゃかにょらい)が祀られています。

 私はこの「パワースポット」の研究で、ほうぼうのお寺さんにお参りさせていただくのですが、宝塔寺の本堂は、伏見の街から少しだけ山の中腹にあり、立派な外陣には心地よい風が通り抜け、本当に癒されます。
 ご本尊を前に姿勢を正し、心を「無」にして「般若心経」をお唱えすると、「嫌な事」が吹き抜ける風と共に去って行くのが実感できますよ。

 歴史、成り立ち、この寺院に関わっ人々の繁栄。どれをとっても「パワースポット」であることが間違いないと納得できる場所です。

 本堂南側には多宝塔があります。これは市内に現存する市内最古の多宝塔(重要文化財)と云われ、永享10年(1438)以前に建立されたもの。
 近くには宝塔寺の本山にあたる妙顕寺歴代廟所があり、墓碑が並んでいます。ちなみに「宝塔寺」の名前の由来は、この墓碑を宝塔に見立て、それが並んでいることから宝塔寺となったそうです。

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深草山にそびえる多宝塔



 本堂右側にある階段を5分ほど登れば、「日像上人廟」があります。墓石は上人自筆の題目笠塔婆(鎌倉時代)を印とするそうです。
 
 私は、この上人廟まで登ってその全景を眼にした時、廟の屋根の上に掲げられた「巽霊山」という文字に非常に興味を惹かれました。
 
 「巽」とは「辰巳」の方角を指し示し、「風水」上では「巽の玄関」を称されるほど、入り口として理想の方角だそうです。
 
 調べてみるとこの深草山は「七面山」と呼ばれると共に「巽霊山」とも呼ばれていることがわかりました。

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日像上人の廟 屋根の上に「巽霊山」と刻印されているのが見えるでしょうか?


 「なるほど」確かにこの地は、「伏見口」として長い間都の玄関口を担って来ました。しかしながら実際は都から見て「辰巳」の方角には当てはまりません。どちらかと言えばほぼ「南南東」を指し「巳馬」の方角を示しています。

 「そんな細かいこと言うな」ワレ! (-_-メ)

 と思われるかも知れませんが、この時代において「方角」と言うのは、人の人生や建物の吉兆を占う上で、「暦」と共に「最重要視」されるものでした。
 「戦」においてまでも「破軍の方角」という方角があるほど、方位は一番重要視されています。
 
 人々は旅に出る際も、わざわざ神様に「吉方」を選んでもらってからそちらの方角に旅にでるというくらい重要なことだったんです。
 これほど科学時術が発達した現代においても、今だに「おみくじ」等には「方角」吉兆のことに触れられていますしね。

 日本人はそれ程までに「方角」に関し、正確な数値を求めるのです。

 その割には、この「巽霊山」に関するアバウトさは「なんじゃらほい」と思いませんか?

 私もすぐにそう思い、得意のグーグル地図を開いてすぐさま検証して見ました。
すると、きっちり「辰巳」の方角を指しました。

 しかし、残念ながら「辰巳方角」を指していたのは、「平安京」の中心である「内裏」の「辰巳」ではありませんでした。

 地図を北西に線を引き、その線をたどって行くと、そこには「真言宗高野山派」の総本山「教王護国寺」つまり「東寺」の伽藍が存在するんです。

 スゴイ! さすがに元「真言宗」寺院!(๑≧౪≦)

 彼らは、きっちりと東寺の位置まで計算して「辰巳の方角」まで割出し、「仏の結界」を張っていた訳なんですよ。

 本当にこの「平安新仏教」の天才集団の緻密な計算には頭が下がります。m(__)m

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「仏の結界」の重要な一因を担う「教王護国寺」こと「東寺」の南大門


 これだけの要因が重なったこの「宝塔寺」が「パワースポット」でないはずの方があり得ないでしょう。

 しかし、これだけの事実を突きつけても「疑り深い人」は必ず一定数おられます。

 そこで、江戸時代以前よりこの伏見に根を張ってきた住民である私が、自信を持って「辰巳」の方角について立証しますが、

 この「東寺」から「宝塔寺」にかけて「南東」つまり「辰巳」の方角に線を引いていくと、その延長線上には何と、私の「心から愛する」伏見区醍醐の「辰巳村」がある訳なんです。

 この「辰巳村」は、「空海」さんの孫弟子にあたる理源大師「聖宝」により開かれた真言宗の大本山「醍醐寺」の寺領として太古の昔より存在している「村」なのですが、それがまた、気持ち良いくらいぴったりと「東寺」を基点にして「宝塔寺」の「辰巳の方角」に位置しています。
 
 つまり「東寺」の「辰巳」の方角には「巽」霊山があり、その延長線上に「極楽寺」と同じ「真言寺院」の寺領「辰巳」村がある。
ということなんです。

 この絶対偶然とは言えない二つの事実を眼の辺りにすれば、もう疑う人はいないでしょう。(*^。^*)



 私がまだ幼い頃、うちの「おばあちゃん」が、「辰巳村は御所の巽の方角にあるめでたい場所なんや」と教えてくれたのを昨日の事のように思い出します。

 今でも村人のほとんどが「辰巳村」の由来は「御所の辰巳」と思っている事でしょう。

 しかし、この村はただ単にたまたま「御所」の「辰巳の方角」に位置していたのでは無く、平安新仏教の天才集団が「仏の結界」を張るに当たり、選ばれた「尊い」聖地だったのです。

 この驚愕の真実をおばあちゃんや、平安の昔より辰巳の「尊い地」で誇り高く生きた「村人」の皆さんを偲び、謹んでご報告申し上げたいと思います。


大きな地図で見る

 

 

パワースポット研究⑨「仏の結界編」~伏見区の意外な事実~前篇

 さて、本当に癒される京都のパワースポット研究「仏の結界」編も3回目を迎えます。
 私は学生時代から日本史を専門に学んでいましたので、京都の歴史的な建造物を始め、この「神護寺」や「延暦寺」が平安京に対し、何らかの宗教的なパワーを与えていると、なんとなく漠然とした考えては持っていました。

 でも、まさか仏さまのお力をお借りすることで、平安京に「仏の結界」を張っている所までは、正直考えたこともなかったですね。

比叡山ブログ用
京都の鬼門を完璧に護る比叡山の全景

 しかし、京都を治めた二大豪族と朝廷が、それぞれの産土神のお力を借りて張り巡らせた「三大大社の結界」を発見したことにより、当時新進気鋭の集団、最澄さまや空海さんを含む「平安新仏教」の一団が、私が気付く程度のことを気づかないはずがないとも思い始めたんです。

 平安京造営当時なら、ある程度の情報もダダ漏れていることでしょうし、別に「風水」や「結界」により護られた都であることを、そこまで隠す必要も無かった事でしょう。逆にこの「からくり」は、みんながわかっていることだから、記録に残すことを忘れてしまい、いつしか人々に忘れ去られてしまったんだと思いますよね。

 何より、当時の日本を代表するような天才頭脳集団、私より何百倍も頭の良い人たちが、このからくりに気づかない訳がないでしょうし、そうなると、もちろん彼らは次の一手を打ってきますよね。

 
 そこで、どういった行動をおこしたか?


 そう、斬新かつあらたな切り口で「仏の結界」創り、当時日本の絶対権力であった「天皇」を取り込んでしまおうと考えたんだと思いますね。

根本中堂ブログ用
「仏の結界」を形成する三角形の3つある頂点の一つ、比叡山延暦寺の「根本中堂」

 
そのためには一体どうすれば良いのか?

答えは簡単。

 仏の名のもとに人工的な「結界」を張ることで、平安京の「王城鎮護」と天皇の「玉体安穏」、そして皇統の「万代繁栄」を保証するという約束をすればいいのですよ。(^-^)

 なんといっても当時「風水」や「仏教」という学問は、「世界の中心」であった「中国」から伝わった「最先端の科学」なんです。
 その最先端の科学を、日本有数の天才たちが使いこなすことで、日本一のお金持ちを「スポンサー」に付け、仏の大伽藍を次々を創建し「結界」を張る。
 畏れ多い話ですが、私が「天皇」でも、「早良親王」の「怨霊」怯えている時に、先に挙げた3つの「祈願」を叶えてくれるというなら、惜しみなくお金を使うだろうと思います。

 そしてこの平安新仏教集団は、その3つの「祈願」をかなえる事との引き換えに、自らの新しい仏教宗派の隆正と繁栄を約束してもらう。
 具体的に言うと、つまり「戒壇」の設立の勅(ちょく・天皇の許可)を賜ることなんですね。

 平安時代の初期当時の仏教、お坊さんの世界は国家試験を受けてやっと「授戒得度」(とくどじゅかい・お坊さんになるための約束事を守りますと、仏さまに誓う儀式のこと)できるという「国家公務員」だったんです。つまり、お給料は国からもらえる訳なんです。

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「仏の結界」三角形のもう一つの頂点である「神護寺」。境内には「結界」の発案者であろう「和気清麻呂」の墓所があり、静かに、また「満世」にわたり京を見護っている。


 しかし当時、その権利を持っているのは奈良の旧仏教「南都六宗」だけだったんですね。ちなみに、授戒できるのは奈良の東大寺を始め、日本で3ヶ所。しかも戒和上5名の同意を取り付けないと成り立たないという、非常にややこしい決まりがあった訳なんです。

 私は、そう言った「南都六宗」のみが持つ「巨大な利権」に立ち向かうため、最澄さま、空海さんを中心とした平安新仏教集団が「仏の結界」の創作の実施へと奔走されたと思うのです。

 結局、この天才二人を中心にして「仏の結界」は完成を迎えます。

 そしてお二人の死後、(空海さんは亡くなられたことにはなってないですが)平安仏教側は「戒壇院の設立の勅」を賜るといった終生の悲願が叶い、「皇室」側は、その結界の法力の恩恵を今だに受け継ぐといった「ウィン・ウィン」の関係を保った訳なんですね。

 めでたしめでたし!(^_-)
 
 
 って、非常に前置きが長くなりました。(>_<)

 前回までで、「神護寺」から「延暦寺」までの「仏の結界」の北方を護るラインは紹介しましたが、それだけでは「平安京」を護る結界としては、中途半端ですよね。結界なんですから、やはり何らかの「印」を結んでないといけない。

 このブログで、「パワースポット研究」とうたっている以上は、キチンと事実を検証し、根拠となるものを示していかなければ、「スピリチュアル」を取り上げた某雑誌と何ら変わらなくなってしましますしね。(^_^;)

 
 私は、「神護寺」と「延暦寺」までの北方ラインを見つけたとき、先程述べた理由から平安京造営時の「三大大社の三角結界」を模倣した「仏の三角結界」が必ず存在すると直感しました。
 英語でひらめきの事を「Inspirare」(インスパイア)と言いますが、これは「神様が、人の頭に知恵を吹き込む」という意味があるそうです。
 その時私は、まさしく「インスパイア」されたのかもしれませんね。

 必ず、「神護寺と延暦寺を結んだ線を含んだ「三角形」を形成する地点があり、そこには平安時代前期に京都の南部を代表するようなランドマークがあるはず」と思い、グーグル地図をしばらく眺めていました。


 その地点は、「神護寺」と「延暦寺」を結んだラインを三角形の一辺として、三角形を形成するのに必要なもう2つの「辺」を見つけ、そして「神護寺」と「延暦寺」の各お寺を始点とし、そこからそれぞれのラインを伸ばしていき、そのラインがぶつかる場所なんです。
 まぁ文で説明するのも面倒なんで、下の図を見て下さい

極楽寺
「仏の結界」を司る見事な三角形。
神護寺と延暦寺それぞれから出発したラインは、京都市伏見区のある地点で交差する。


 が、期待とは裏腹に、その地点には大きな寺院は無く、ごく小さな鎌倉新仏教の寺院が何軒も一か所に集まっているだけでした。

 「残念やなぁ」(T_T)と思い、何気なくその地点を拡大してみると、その小さな寺院が集まる地域の、住所が一つの町内の中にすべてスッポリとはまり込んでしまうことに気付いたのです。



 その町名は伏見区深草「極楽寺町」

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いくら地図を調べても「極楽寺」なんて一切出てこないのに「極楽寺町」

 その極楽寺町の名前の由来を調べた結果、この「仏の結界」には、私が考えている「結界」の成り立ちより、更に一つ上のレベルの「大きな力」が働いていることに気付かされたのです。


 その大きな力とは「藤原北家」(摂関家)の存在なんです。


 この三角形を形成する残りの2つの「辺」が重なる場所には、私が思っていた通り、平安時代に清和天皇を始め4帝にわたり朝廷の実験を握り、権力を欲しいままにした「藤原基経」(ふじわらもとつね)が誓願したと伝わる「極楽寺」の大伽藍(だいがらん)が、かつて建立されていたのです。

 さすがは「平安新仏教集団」の頭脳!抜け目が無い。

 はたまた「藤原北家」の方が、「結界」の力で絶対的な権力を得るために、自ら「スポンサー」をかって出たのか。
 理由は分かりませんが、両方ともの理由が正解なんでしょう

 さすがに私も「藤原北家」が絡んでくるとは思いもよりませんでしたが。

 今は人影も疎らなこの地に、「極楽寺」が建立されたゆえん等については、これから今回のブログにまとめるのには、かなりの長文となることが予想されますので、次回にまた詳しくお話ししたいと思います。

 とにかくこの地は、現在の閑静な住宅地とは思いもよらぬ京都の重要スポットだった訳です。

 中途半端になってスイマセン! m(__)m
 
 
プロフィール

やま法師

Author:やま法師
 生まれはおろか、戸籍を尋ねてみても、江戸時代の文久年間までは、とりあえず遡ることが確認できた京都(宇治郡・醍醐)人。当時の身分制度から考えるとそれ以前よりご先祖さまが、此の地に定住していたことは間違いない。
 
 生来よりのきかん坊で、自由奔放な青春を謳歌し、30代後半まで犯罪スレスレの生業で生計を立てるも、ある日奇瑞の仏縁を頂くことで、これまでの諸行を省みて仏に帰依する。

 得度授戒をしていない凡夫、いわゆる一般人のなかでは、日本仏教の母山である比叡山延暦寺に一番近い立場の人間となれたことへ報恩感謝し、その証として、ブログを通じてリアルな比叡山の情報を発信して行きたい。

 また、職権を利用することで、昨今よく目にする京都の観光情報のみを紹介するブログとは一線を画した、歴史的かつ、宗教的な側面を踏まえ、本物の「心の癒し」を目的とした京都並びに周辺の観光情報を紹介して行きたい。

 その一方、趣味のロードバイクを駆使することで、大好物のラーメンを始めとしたB級グルメ等を細やかに発信し、全国より京都へ訪れてくれた方々への一助となりたい。

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