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パワースポット研究⑧「仏の結界編」~日本一 比叡山延暦寺の完璧すぎる鬼門封じ~

 前回「本当に癒される京都のパワースポット研究 仏の結界編~」の第1回では、自らが「死」した後も、平安京を万世にわたって護り続ける「和気清麻呂公」の墓所であり、そして、その地を託された「弘法大師空海」さん始めとした、真言宗一門が護り続けている「神護寺」の話を取り上げました。

 
 しかし前回の話では、まだ「仏の結界」をひとつの「点」でしか紹介出来ていないですよね。


 そんな訳で今回の「本当に癒されるパワースポット研究⑧」「仏の結界編」の第2弾は、
「日本仏教の母山」であり、私の「心の拠り所」でもある「比叡山延暦寺」の平安京における「三大大社の結界」と「仏の結界」の「2つの結界」を用いて
「完璧に京の鬼門を封じている」件についてお話したいと思います。

根本中堂
昨年の秋に撮影した延暦寺総本堂根本中堂

 この「延暦寺」へ登叡される場合は、旧態依然のビジネスモデルを未だに引きずった、日本でも有数の高額な運搬料金を支払わなければなりません。(>_<)

 一般的に公共機関で登叡される場合は、JR湖西線「比叡山坂本駅」で下車し、坂本の街の上り坂を20分ほどかけて「ケーブル坂本駅」まで歩きます。その後「ケーブルカー」で山上まで行き、そこから10分ほど歩きます。
運賃は大人一人往復で1570円です。

 また、毎年3月21日から12月1日までの春から秋までの期間は、京都駅から三条京阪、京阪出町柳駅経由で比叡山内の東塔バスセンターまで行く「ドライブバス」が、毎日午前8時半から12時半まで5本運行しております。
 運賃は東塔バスセンターまで一人片道750円です。

 ちなみに山内に入ってからのシャトルバスは一日乗り放題で一人800円になります。

 車で来られる場合は、悪名高き「日本一高額料金」の比叡山・奥比叡ドライブウェイのどちらかを通らないと辿り着けません。

 表の入口である比叡山DWを、「田の谷」ゲートから入り延暦寺まで、往復で1620円。その後、西塔、横川へと回り、裏の堅田方面へとつながる奥比叡DWの仰木ゲートまで抜けると2320円。京都方面へ帰る「田の谷」の表ゲートまで戻ると何と3120円かかります。

 その上、延暦寺の参拝料金が大人一人550円かかります。
 
 すなわち、大人二人がデートか何かで延暦寺に登叡しようした場合、全てのお堂を見て回るのに、「ケーブル」で登って、「シャトルバス」で巡回すると5840円。
京都駅から「ドライブバス」で同じコースだと4200円。お車の場合で最大4220円もかかることになります。

 これじゃ、なかなか気軽にお参りに来れないのが現状です。(>_<)

 まぁ…身内の私が言うのも何なんですが、もともと日本仏教史上で初めて「山修山学」(さんしゅうさんがく)という「都から離れた山奥で政治に関わることなく、修行しながら日々都の平安を祈る」と言った,
「仏教の理想」を実践した「聖地」なので、そもそも一般人が足を踏み入れること自体が「想定外」だったんですね。
 それ程の「聖地」に、歩くこと無く「自動車」で来れるようになっただけでも…とは思いますが…

 まぁそれにしても「高い」ですよね。(~_~;)

 がしかし、これから私が提示する、「延暦寺」が平安京の「鬼門」を完全に封じている「日本最大のパワースポット」たる証拠を見れば、この少々「お高い」運行コストを差し引いてでも「登叡参拝」される慶びを感じていただけると思います。

 と思っていただけるよう努力します。

横川中堂
 昨年の横川中堂の紅葉。
今年の紅葉はこれ以上に赤くなると予想されています。少々「お高い」比叡山・奥比叡の両ドライブウェイですが、見に来て損はないですよ。
 

「比叡山延暦寺」は、「伝教大師最澄」(でんぎょうだいしさいちょう)さまがお開きになられたことは歴史の教科書や、TVの特集などでご存じの方も多いと思います。

 この最澄さま、子供の頃からまれに見る「天才児」で、若干19歳にして「日本で年間5人しか受からない」今でゆう「エリート官僚」(当時お坊さんになるには国の許可が必要だったので、国家公務員だったんです)になるための試験に見事合格。
 しかも、そのご尊顔は色白の女顔で、かなりの「イケメン」。その上生涯で声を荒立てて「怒った」ことが一度もないと云われるほどの「優しさ」を持つ、まさに「完璧」な人物でした。

 欠点があるとすれば、あまりに真面目すぎること。

 後に最澄さんと共に「仏教界の二大巨人」となられる弘法大師「空海」さんも「ドン引き」してしまうほどの「生真面目さ」だったと云われています。



 さて、この最澄さまが19歳で「比叡山」に登られ、「延暦寺」当時の「比叡山寺」を開基された訳なのですが、最澄さまが比叡山に登られた一番の理由は、当時の「奈良」を拠点とした古来からの「南都仏教」には「人々を救える術がない」と減滅・失望されてとのことだったと云われています。
  
 今回は「仏の結界」を中心にお話をしているのでお寺の詳細は省かせていただきますが、

 当時最澄さまは、現在の延暦寺東塔東谷(とうとうひがしたに)の虚空蔵尾(こくうぞうお)という場所に「一乗止観院」(いちじょうしかんいん)という草庵を結ばれたとあります。

 ほとんどの書物には、この「一乗止観院」が後の「延暦寺総本堂」である「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)になると書いてあるのですが、「延暦寺」の研究者である「延暦寺執行」(えんりゃくじしぎょう・延暦寺の実務の取り仕切りを天台座主から任された、会社でゆう社長のような役職)武覚超(たけかくちょう)師によれば、実際は最澄さまが庵を結ばれたのは、現在の「本願堂」跡(ほんがんじあと)で、「根本中堂」はその場所から、100メートルほど南にあります。

 当初から現在のように巨大な「根本中堂」を建築する予定などはなかったと思われますので、私は立地条件を考えて「一乗止観院」をその場所に建立した訳では無いと思うんですね。

大師堂
比叡山横川地域の元三大師堂です。
地面に落ちたゴミであるはずの「紅葉」に美しさを感じるのは、我々「日本人」だけでしょう。
この独特の美意識が私は大好きです。

 
 「延暦寺」が「京都の鬼門」を護るために建てられたといのはみなさん良くご存知だと思いますが、そもそも最澄さまは、「都の鬼門」を護るために比叡山にこもられたのでは無く、実は、ただ単にご自身の出身が山麓の坂本だからなんですね。

 最澄さまのご出生で伝わるのは、ご父母がなかなか子宝に恵まれないため、お父さまが比叡山麓の八王子山(はちおおじやま)にこもって己の罪を懺悔(ざんげ)し、その4日目に妊娠の兆候がみられ、お生まれになられたのが最澄さまだそうです。
 
 だから最澄さまは、その天才振りから「比叡の神の子」と呼ばれていたそうです。

 その後、若干19歳にして「南都の仏教では衆生を救えない」と考え、「エリート官僚への道」を捨ててまで「全ての人を救える方法がわかるまで山麓には下りない」と誓いを立て比叡山にこもられます。
 しかしこれは、決して「平安京を護る」ためにこもられたのではありません。

 でも結果として、この山は都の鬼門に位置しており、王城鎮護を担う寺を建立することとなる訳です。
この「因縁」を考えると、さすがに最澄さまは「比叡の神の子」と思わざる得ないですよね。(^-^)

 最澄さまは比叡山にこもり、モーレツに法華経(ほけきょう)の研究に勤しまれる訳ですが、そこは「嚢中の錐」(のうちゅうのきり・実力のある人は、袋の中にしまいこんでも先の尖ったキリのように突き破って頭角を表すという意味)。その天才ぶりを桓武天皇が放って置くわけがなく、天皇に直接お目見えし「加持祈祷」(かじきとう)するお坊さん「内供奉十禅師」(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命されます。

 その後、前回の「神護寺編」でお話しました通り「和気広世」「真綱」兄弟の心をも鷲掴みにし、「高雄山寺の法華講経論義」(ほっけこうきょうろんぎ)をもって、最澄さまが名声を手に入れ、世に出るきっかけとなったのです。

 

 最澄さまの生まれから、青年期までをザッとお話しした訳ですが、最澄さまはその頃あたりから、この「延暦寺」が「平安京の鬼門を護っている寺」という概念が出来てきたのではないかと、私は思うわけなんです。

 その考えのもと、平安京の鬼門を護る「一乗止観院」、後の「根本中堂」の建立に至ったと思うのです。


 「延暦寺」が、いかに鬼門封じの中心として建立されている寺院なのかということを図で説明すると、

延暦寺鬼門①


 見て下さいこの完璧な「鬼門の結界」を。

 上の図の中心の「三角形の結界」は、以前に紹介した京都の2大豪族と桓武天皇が平安京を護るために創り上げた「平安京の三大大社の結界」です。
 そして、その三角形の上方を通るラインは前回紹介した「神護寺」から「上賀茂神社」、「崇導神社」、「延暦寺」へと繋がる「仏の結界」の北方を護るラインとなります。
 そして今回は、新たに図の中に、平安京の「大極殿」から延暦寺の「根本中堂」へと向かう「平安京の鬼門」を護る「斜めのライン」を入れました。

 この「鬼門」のラインは、比叡山上の「延暦寺根本中堂」から、現在の「京都御所」の「猿が辻」を通り、「平安京大極殿」の方向に「ピッタリ」と真っ直ぐ直線で結ばれています。

 しかも、このラインは「本願堂」跡から出発すると、ここまで「ピッタリ」と重なりません。
「一乗止観院」、後の「根本中堂」から出発しないと微妙にズレてきます。測量したかのように見事にはまっています。

 また、下の方の図はその「鬼門」のラインを拡大したものです(赤く塗ってある所が内裏跡、現在は小学校になっています)。

延暦寺~内裏

 この拡大図を見て下さい。

 このラインは見事に「京都御所」の東北の鬼門「猿が辻」を通過し、「大極殿」の中でも特に重要な「天皇」が住まわれ、実際に政務を執られた「内裏」を終点とします。

 この「鬼門ライン」と「仏の結界ライン」を見るといかに「延暦寺」が都の「鬼門封じ」の役割を担っていたかひと目でおわかりでしょう。

 鎌倉時代後期(かまくらじだいこうき)に造営された、「里内裏」(さとだいり・天皇が内裏以外に一時的に住まわれる場所)である「京都御所」さえも、この延暦寺への「鬼門封じライン」に沿って御所の「鬼門」に当たる「猿が辻」を作りそこに比叡山麓にある「山王総本宮日吉大社」(さんのうそうほんぐうひよしたいしゃ)より「魔猿」(まさる・魔が去るとして、日吉大社の神獣とされる)を「歓請」(かんじょう)してまで「厄除け」をしています。
 
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京都御所の北東、いわゆる「鬼門の方角」の「猿が辻」には、塀と塀の角を意図的に「欠け」させ、その「欠け」に「魔猿」を祀る
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烏帽子を冠り、白い弊を肩に担ぐ「まさる」。役割を忘れ、夜な夜な逃げ出しては都で悪さをはたらくため、金網で囲まれてしまったらしいです(*^_^*)


 みなさんいかがですか?

 「延暦寺」がいかに完璧に「平安京の鬼門」を封じているか、「目で見て」理解していただけたと思います。

しかも単に封じているだけで無く、毎日、回峰行者を含めた相当数のお坊さんが、この「鬼門封じのライン」に沿って、京の都の平安を祈り「勤行」する訳です。

 1225年間、毎日欠かさずです。
 
 まさしく「完全」に「理」にかなった「日本一のパワースポット」でしよ。

 世の中に、有名な「パワースポット」は数多くあります。

 しかしその多くが、「廟」(びょう・つまりお墓とか亡くなった方の魂を慰めるために創られたもの)なり、自然崇拝の象徴となるべきものであって、「自然の地形」と「風水による人智」を「仏の力」で護るという「自然・人・仏」が融合した「パワースポット」は他に類を見ないでしょう。

 しかも、その「鬼門ライン」を「根本中堂」を南へ移動することにより、「完璧」なものとした最澄さまのお考えに頭が下がるばかりです。

 
 「比叡山延暦寺」では、昨日も、本日も、明日も未来永劫にわたりこの「平安京の鬼門封じ」ラインに沿って「国家安穏」の「祈りと修法」がなされています。特に毎月の1日には、「天台座主猊下」おん自らが山上に登叡され修法を執り行う「国祈会」(こくとうえ)が営まれています。

 冒頭で、延暦寺にお参りに来るのは少々「お高い」コストがかかると言いましたが、今日のお話で「延暦寺」がコストに見合う「パワースポット」だと理解していただけたなら幸甚ですね。(^-^)



 最後に、まとまりの悪い長文を ここまで読んでくれた方々に少しだけ参拝するのが安くなる方法を教えます。

車で来られる場合、ドライブウェイを奥比叡の「仰木ゲート」から入り、一般とは逆に横川、西塔とお参りして、西塔の駐車場に車を止め、徒歩で「浄土院」を参拝し、その後15分ほど歩く「根本中堂」へとたどり着けます。
 
 その後お参りを済ませて、再び西塔の駐車場に戻り、元きた道を引き返します。

 それなりに歩かないといけませんが、PCでクーポン券を印刷して使用すると通常3120円の料金が1280円になります。
 参考にしてください。

 


 
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北嶺千日回峰行大行満大阿闍梨 酒井雄哉師を偲んで

 本日、朝刊の紙面を賑わせていましたので、ご存知の方も多いと思いますが、比叡山延暦寺の究極の荒行である「千日回峰行」を2度も満行された「北嶺回峰行大行満大阿闍梨 酒井雄哉」(ほくれいかいほうぎょうだいぎょうまんだいあじゃり さかいゆうさい)師が、昨日の午後ご遷化されました。 87歳でした。
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私が初めて撮らせていただいた酒井阿闍梨さまのお写真です
仕事とは別に、個人的に1枚撮らせていただきました。


 酒井阿闍梨さまは太平洋戦争時に、予科練に入隊し特攻隊へ。

 「死」を覚悟しながらも、敵艦への特攻を目前に終戦を迎え、戦友と共に死ぬことができなかった、いわゆる「特攻くずれ」として、終戦後荒んだ人生を歩まれました。

 その後、大坂で商売をするも失敗し、遂には奥様が「自殺」をされるという人生の最悪な時期を迎えられます。

 思い余って大阪から歩いて旅立ち、辿りついた比叡山で、そのまま弟子入りを志願され得度。小僧生活をへて40歳で「千日回峰行」へ入行されます。

 
 私も39歳でお山にご縁をいただいて、行者さんたちの「修行」のお手伝いをさせていただいたりしていますが、リアルにその修行の「過酷」さを見ている私には、40歳からの「回峰行」入行なんて考えもできません。本当に「自殺行為」だと思います。40歳の体力と気力では、とてもとても成し遂げることはできないです。

 しかし酒井阿闍梨さまは、それを2度も満行されました。しかも1度目は住職になるために、学校に通いながら満行されたそうです。
 その行にかける信念たるや、「凄まじい」以外に言葉が浮かびません。


 私は酒井阿闍梨をかねてより「二千日回峰行」の本を読んで知ってはいましたが、お山では見かけることも無く「やっぱり生き仏さんとは中々会えないなぁ」と残念に思っていました。


 そんな時、当時の上司から突然「話はしてあるから阿闍梨さまの顔写真を撮ってきて」と依頼されました。

 緊張しながら阿闍梨さんの住まわれる飯室谷(いむろだに)の長寿院(ちょうじゅいん)に向かい、玄関を叩くと、上司が時間を勘違いしていたらしく、まだお休み中に伺ってしまったらしいです。
 
 身の回りのお世話をする信者さんに、散々「イヤミ」を言われましたが、酒井阿闍梨さまは快く「構わないから上がっておいで」と優しく声をかけてくださいました。

 私としましては「やってしまった」気持ちで「いっぱいいっぱい」に「テンパって」しまっていましたが、「すまんな~すぐに着替えるからちょっと待っといておくれ」と、上方落語の噺家のようなテンポで話しながらお茶を入れて下さいました。
 そのお茶が絶妙に美味しかったのを今だに覚えています。その一杯で一気に緊張が解きほぐれました。

 お着替えされている阿闍梨さまは、背丈こそは小さいが、その下半身のしっかりしていること!
特にあの「ぶりっとしたお尻」の大きさは忘れられません。地球2周分を踏破した方の「お尻」はやっぱり常人とはぜんぜん違います。

 阿闍梨さまはお着替えされながらも、待っている私に気を使われて、色々なお話をしてくださいました。
その慈愛あふれるお話を直接お聞きすることができ、本当に夢のような時間でした。


 結局その日は「テンパって」しまった上に、舞い上がってしまったため、撮った写真は思いっきりグダグダで、ひと目見るなり「ボツ」にされてしまいました。
 上の写真でわかるように、下に召されているシャツが見えていることもわからないくらい緊張していました(^_^;)

 帰り際には、「せっかく来たのに、手ぶらで帰ってはイカン!」と、お土産まで持たせてくださりました。
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その時に頂戴した阿闍梨さまの著書です。私の目の前でサインを書いてくださいました
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 たった一度だけの経験でしたが、本当に仏様に抱かれているような安心感に包まれた、幸せな時間を過ごさせていただきました。

 あれから2年、何とか「ボツ」にはならないような写真を撮れるようにはなりました。しかしもう阿闍梨さまのお写真を撮れないのは少し寂しい気がします。

 壮絶な人生を送られ、過酷な「千日回峰行」を2度も満行されたその「目」に、世の中はどのように映っていたのでしょうか?聞きたいことがたくさんありますが、結局聞けずじまいでした。

 これからも私は、阿闍梨さまの愛した「比叡山延暦寺」の記録を許される限り撮り続けて行きたいです。

波乱万丈な今世を送られましたが、来世はゆっくりとした一生をお過ごしになられる事をお祈りします。



 

 

心の癒しを求めて~延暦寺に行ってみよう無動寺編~

ブログ作りのコツを検索していた所、「訪問者が何を求めてブログを閲覧するのかを明確にすべき!」と、書いてあったので、少々こ細工をして、しれ~っとブログの主題名を少し変更してみました。
 ですので今回は、「心の癒し」をテーマに、私が比叡山に御縁をいただいてから、いろいろと経験し学んだ、「お寺とのご縁の結び方」の実践をレポートしたいと思います。


 現代の社会情勢では、人と人との結びつきが希薄になりつつあるとよく云われています。特にお寺との結びつきなんていうのは顕著で、お坊さんなんて、お葬式と法事、あとは町内の地蔵盆の法要くらいにしか目にすることもなく、現代人にとってお寺の存在意義なんてほとんど見いだせられないのが現状でしょう。

 あの大きな門構えの寺院の中はどうなっているのかもわからないですし、宗教法に人は税金がかからない特権を利用した、「坊主丸儲け」ってゆうイメージがホントに強いですよね。

 このブログを見ていただいている方々で「私(我が家)は、近所の住職と懇意にしていて、頻繁に菩提寺に出入りしている」なんて方は皆無だと思います。
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比叡山無動寺(ひえいざんむどうじ)から望む大津市街と琵琶湖の遠景

 私自身も、父母ともいわゆる「団塊の世代」のためか、「革新」派を気取って古来の伝統を軽視する傾向がありました。
 地域の伝統行事にもほぼ興味がなく、近所に菩提寺はあったのですが、門をくぐるどころか、住職も法事の時にしか見かけないようなありさまだったので、お寺を始め、全く宗教とは無縁の生活を送ってきました。
 ただ、日本史には異常なほどの興味を持っており、そのおかげと、奇跡のような勝縁で今の職業につけることができ、お寺とご縁、しかも日本仏教の母山といわれる延暦寺とのご縁をいただけることとなりました。


 やはり自然というのは本当に心の浄化作用があるものなのか、山上で1年も過ごすと、だいぶ安穏とした生活を送れるようになってきたのを実感し、お堂に何度も出入りしているうちに、お寺や住職さんとの距離が非常に近くなってきました。
 そうなってくると、「お寺って案外近い所にあるなぁ」と実感ができるようになってきますね。


 かと言って、このブログを見ていただいている方々全員がそんな「縁」をお持ちでないでしょうし、突然近所のお寺に行っていきなり本堂に上がり込んでも、今のこのご時世では、泥棒と間違われて警察に突き出されるのがオチですよね。 
 よしんば本堂に上がれても、お経のひとつも知らなかったら間も持ちませんし、ご本尊を拝む程度のお参りなら、初詣と旅行に行ったときくらいで十分ですから…


 そこで今回は、お寺とのご縁を結ぶ一番簡単で、かつ実践的な方法を教えてしまいます。

 このブログで何度も申し上げておりますが、私は比叡山延暦寺でご縁をいただいております。

 ただ、延暦寺と言いましてもその境内はとてつもなく広く、何より住職は総べて修行僧のため、一般的な菩提寺の住職のように、お葬式の取り仕切りや法事関係に顔を出すことはありません。(まぁそこが延暦寺の良い所だと私も思いますし、かの司馬遼太郎も著書の中で「釈迦の意志を受け継いでいる」と褒めています。)

 じゃあどうしろと…(-_-メ)
と思いますよね。

 何と延暦寺の中でも、無動寺谷の明王堂(みょうおうどう)と弁天堂(べんてんどう)。横川の元三大師堂(がんざんだいしどう)。この3つの寺院だけは、個人が直接出向いて信者さんになることができるんです。
 その中でも、今回は、無動寺谷の無動寺明王堂を紹介いたします。


 延暦寺の第3駐車場から、10分程度南に下って歩くとケーブルの比叡山山上駅に到着します。この駅舎のすぐ隣に石造りの鳥居があり、その前方には石塔に無動寺参道と掘られています。
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 ここが、今から向かう明王堂への入口。そこから、約20分ほどよく整備された山道を下っていくと、ほどなく明王堂に到着します。
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無動寺へと続く道 差し込む朝日と溢れるマイナスイオンだけで心がホッとします
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無動寺明王堂 写真は、昨年の一日万拝の時の写真。年に一度のご本尊の御開帳と、阿闍梨さんからお加持を受けようと、信者さんで溢れかえります。


 ここでは、毎日午前10時に輪番(りんばん)というお堂の責任者が護摩供養を修されています。
代々輪番は、比叡山を代表する荒行である千日回峰行を満行された北嶺大行満大阿闍梨(ほくれいだいぎょうまんだいあじゃり)が務められます。

 この護摩供養は、誰でも参加が自由なのです。参加料なんて野暮なものもありませんし、その上食事だって出してくれるんです。
 護摩供養は、約1時間にわたって厳修されます。参加者は堂内に置いてあるお経の本をお借りし、正座を保ち、護摩木を炎に焼べる阿闍梨さんと一体になりながら心を無にしてにお経を唱えます。

 この約1時間のお勤めがちょうどいいんです。足の痺れもギリギリ我慢できますし(別に足を崩してもいいんですよ)。何より集中できます。
 お勤めに参加するまでに、約20分ほど自然の中を散歩して明王堂にたどり着きますので、既に心がある程度ほぐされている上、お経を唱えることによって、お腹の中から嫌なものが全て出て行ってしまうようです。
 また、ほとんど毎日、何人かの信者さんがお勤めに参加されていますし、すべての方が思いを同じくされて随喜されていますので、大きな声でお経を唱えても全然恥ずかしくなんてないです。 「心癒されたい」という同じ思いの方と一緒にいるとそれだけで安心できますしね(^-^)
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明王堂の脇に建つ、無動寺の開祖で千日回峰行の始祖ある相応和尚の石像


 お勤めの最中にお堂のかたが、「お斎はどうされますか?」と聞きにこられるので、阿闍梨さんとお食事をして色々なお話を聞きたかったら「お願いします」と言えばいいんです。お金なんて要りません。
 お寺は相互扶助の精神で成り立っていますから、お金持ちがたくさんの志納(しのう)を収めます。だから自分の思いが本懐を遂げた時にあらためてお礼をすればいいんです。
 それでも、気を遣ってしまうとゆう人は、お護摩に願いを書いて納めましょう。一本500円くらいやったと思います。

 お勤めに参加することだけで、十分に心がすっきりしますが、阿闍梨さんと直接お会いしてお話を聞くのもいいですね。 阿闍梨さんは、ものすごくお話好きな方なので「何を話せばいいか」なんて考える間もなくしゃべって来られますよ。
 しかし、遊びや茶化す気持ちでは、絶対に行ってはいけませんよ。阿闍梨さんは、信者さんにとっては「生き仏様」です。信仰の対象の方なので、茶化したりすると大変なことになります。
 まぁこのブログを見ている方で、そんなアホな人はいないと思いますが…
 

 以上が、無動寺明王堂の流れですね。ホントに散歩がてらに気軽に、お勤めを経験することができますよ。
半日の時間と、少しだけの「行ってみよう」という気持ちがあれば、誰でも本格的なお勤めに気軽に参加できて、メチャメチャ癒されます。無動寺からの帰りの登り坂は、スッキリとして足の運びも軽やかになりますよ。(^ω^)

 人生何事もきっかけが大事です。
昔の人たちは当たり前のようにこうやってお寺に通っていました。だから何も特別な事をお勧めしている訳ではないです。昨今の偏重した教育によって忘れられてしまったものを取り戻そうとしているだけです。私もかつてそうでしたから…
 このブログで、少しでもお寺と一般の人々との距離が近くなってくれればと所望しています。
 
 

 

 
 

41歳を記念して~比叡山文化講座と千日回峰行一日体験②~

本日は、近江八幡市の伊崎寺で竿飛びの取材に行って来ました。本来なら、記憶や感動がまだ暖かいうちに報告したかったのですが…
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 一日回峰行体験の報告を先にやっちゃいます。スイマセン(๑≧౪≦)てへぺろ


 さて、文化講座も無事に終わり、事務関係の後片付けも終えたので、一路宿舎の延暦寺会館へ。

 延暦寺で、個人参加で公式に回峰行の体験を出来るのは、1年の間で「比叡山仏教文化講座」の回峰行体験のたった1度だけなので、かなり貴重な経験になると思います。

 私は回峰行中、こまごまとしたお手伝いをしたり、休憩場所や安全の確保をする役目を担うため、身内ということで、宿泊は、本日の先達を勤める本山交衆生(ほんざんきょうしゅうせい)という、俗世を離れて3年間比叡山に籠り修行する、修行僧たちが詰めた大部屋の隣で雑魚寝しました。

 交衆生は、俗世との関係を断つため、普段から山内の諸堂で生活をしています。
 
 本日は、一日開放の先達のために「延暦寺会館」の大部屋に泊まっていましたが、部屋にはTVやその他一般の情報が入るような物は一切置いてなく、徹底して管理されております。
 そんな中、少しだけ彼らとお話しする機会がありました。

 彼らはつい何日か前に、葛川夏安居(かつらがわげあんご・北嶺回峰行者が集まり大津市葛川に5日間参籠する1千年以上続く修行)から帰って来たところで、その「行」から帰ってきた事によって「百日回峰行」を満行したことになるので、その身に霊験あらたかなオーラを纏い、同じに空間にいるだけでご利益が得られるようでした。 

 しかも彼らは、本日8月1日から四種三昧という90日間お堂から出れない行に入ります。だからお話をしている時は、つかの間の休みを満喫しているようでしたね。 

 ちなみに夏安居中は、「5日間を通して2時間位寝れました」と、笑ってましたわ。まさに超人です(*_*)
比叡山には本物の行者がいます。目の前にいるんです。


 おしゃべりもそこそこに眠りに入り、午前1時の目覚ましで目が覚めました。

 午前2時の出発前に、スタッフと打ち合わせ。
 そうこうしていると、比叡山無動寺谷より本日の回峰行体験を先導して頂く大先達(だいせんだつ)である、北嶺千日回峰行を満行された無動寺明王堂輪番(むどうじみょうおうどうりんばん)光永圓道大行満大阿闍梨(みつながえんどうだいぎょうまんだいあじゃり)が延暦寺会館に到着されました。
 さすがに回峰行に挑まれていた「白浄衣」(びゃくじょうえ)に身を包まれた「大阿闍梨」さまは、威厳とオーラに満ちています。
 が、夏安居の時とは違い、かなりリラックスされた感じで笑顔がこぼれていました。

 1時30分くらいには参加者が続々と延暦寺会館玄関前にと集まってきたので、交衆生が点呼をとり、準備運動を始めます。
 41歳の身体を目一杯伸ばしこれからの巡礼に備えました。
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 行中なので、カメラのフラッシュが使えません。全体的に写真は暗いです。スイマセン


 午前2時阿闍梨さまが延暦寺会館から出てきました。
「夜の比叡山内」を歩くための諸注意を聞いたあと出発です。

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 延暦寺会館から坂道を5分も登ると、延暦寺の総本堂へと続く大坂に出ます。そこから根本中堂に下り、本堂正面で阿闍梨さんが大導師を勤められ、これからの安全を祈願し全員で『般若心経』を読誦します。

 皆さんどこで習ったのか知らないですが、打ち合わせもないのにうまく唱和しておりました。

 その後、大坂を引き返して、坂道を上り大講堂の周りをを1周。一般の方々が使われる参道とは違う、脇の行者道を伝い、戒壇院(かいだんいん)を経て、西塔地域へと向かいます。

 戒壇院を過ぎると、すぐに護心院跡(ごしんいんあと)です。ここは山内でも有名な自殺の名所で、比叡山で自殺する人はこの護心院跡を含め、東京ドーム500個分もある境内の中で、ほぼ2、3ヶ所に集中しているらしいです。不思議なことですね。
 よく「呼ばれる」といいますが、そういうことが本当にあるのかもしれないですね。

 護心院の方向をなるべく見ないように急いで通り過ぎると、次は弁慶水。ここでは、夜中に「天狗」が出ることで有名です。

 その後、奥比叡DWに架かる橋を渡り、山王院(さんのういん)から石段を下り浄土院(じょうどいん)を通過。
 「武蔵坊弁慶」が担いだと伝わる「にない堂」を経て、西塔の総本堂である釈迦堂(しゃかどう)に到着。法楽と阿闍梨さんの法話のあと、しばしのトイレ休憩を取ります。
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釈迦堂にて

 ここまでで所要時間約1時間。参加者には70歳代4名のグループがおられるがすこぶる元気。私より元気かも知れない。

 西塔を巡礼したあと、一行は狩篭(かりごめ)からドライブウェイを通り峰道(みねみち)へ、本来の回峰行の場合、ここは餓鬼坂(がきざか)という行者道を通るのだが、この体験ではそのルートは通りません。
 
 私も回峰行の取材に何度か立ち合せてもらったことがありますが、その時も私たちはこの餓鬼坂は通れません。理由はよくわかりませんが、この霊峰には夜間に一般人が立ち入ってはいけないところが数箇所あるのでは無いでしょうか。だから黙って従っています。

 その後、峰道の行者道を伝い玉体杉(ぎゃくたいすぎ)へ。ここで「王城鎮護」と「玉体安穏」を祈願し横川地域へと向かう。
 途中で横川への入り口となる不二門跡(ふじもんあと)を通過し、午前3時半横川へと入る。午前4時に横川中道参拝後、比叡山で唯一実在された「お坊さん」「元三大師良源さん」をご本尊とした元三大師堂へと向います。


 元三大師堂では、午前4時にすでにお勤めが始まっていました。

 「白浄衣」で山内を飛ぶように走り抜ける無動寺の回峰行者を「山の白鷺」と呼ぶのに対し、ここ横川元三大師堂は、日々のお勤めの量が半端じゃなく、早朝からほぼ一日中読経が聞こえているので「谷間の鈴虫」と例えられています。

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元三大師堂では、毎日午前3時からお勤めをされています。

 大師堂前には、お堂の責任者である「當執事」さんのはからいで、お茶の用意がしてありました。ありがたく頂き、トイレ休憩をとれば、午前4時半。これから1時間半をかけて長い下り坂を伝い、山王総本宮「日吉大社」を経て坂本にある延暦寺総本坊「滋賀院本坊」へと向かいます。

 日吉大社へと向かう1時間の間にすっかり夜が明けました。1時間以上も坂道を下りっぱなしなので、そろそろ膝がガクガク笑い出します。
 回峰行の一番の難点は、先に長い下りがあり、その後一気に急激な上り坂を登ること。この普段の登山とは全く逆の行程に体がうまく順応できず、実際の距離より体に負担がかかります。

 震えだした膝に神経を集中させて歩いてうちに、一行は山麓の日吉大社へ到着。
 西本宮を参詣するころには、足が重たく感じて震えが止まらず、滋賀院本坊で食事をいただいたのですが、正直これからあの急激な無動寺坂を登れるのかかなり不安になってきました。

 しかし、あの栃木からこられた70歳代の皆さんの元気なこと。それとなく「大丈夫ですか?」と聞いてみたら、みんなやる気満々です。お話していると、こちらもやる気が湧いてきました。
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食事のあと点呼を終えて、さぁ最大の難所無動寺坂に挑む


 滋賀院本坊から、朝日に照らされた比叡山を仰ぐと、かなり切り立って見える。
「ここをのぼるのか(^_^;)」
 
 唯一の救いは、例年に比べ気温がかなり涼しいところ。
 途中、無動寺へと続く坂道の入口「庄墓」(しょうばか)という場所で、阿闍梨さまから最後の注意を受ける。
「ここからの上りは、あくまで修行です。ゆっくりとしたペースで登ってもいいですが、決して休まないこと。休めば心が折れます」とのこと。
 「そうだこれは修行なんだ」と自分に言い聞かし、麻痺しかけた膝を叩き、自分自信を鼓舞させる。
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庄墓から無動寺坂に向かう

 無動寺坂に入ると、とにかく蒸し暑い。山全体にビニールが張られているような錯覚すら覚えます。今日はまだ、日が差し込まないぶんマシだが、この湿気の中、毎日坂道を登る回峰行者の精神力にはただひたすら頭が下がります。
 途中交衆生に「ようこんなこと百日も廻れたなぁ」と話すと、「今日は涼しいし、いい運動になりますよ」とさらりと言われた。ホンマに超人やわ!(>_<)

 そんなこんなで、息を切らし重い足を引きずり汗だくになりながら、午前8時半に無動寺明王堂を通過。この頃には写真を撮ることは完全に忘れてしまっています。ここからは自分自身との勝負。
 「後もう少し、約20分の道のり」、こうなると、最後の踏ん張りで身体はガンガン動いてくる。

 午後9時ついに延暦寺会館へと帰り着く。

 やっと約7時間をかけた30キロの巡礼の道のりが無事に幕を閉じた。


 何度かこの「回峰行巡礼」の行程を経験していますが、年にただ一度だけ一般の方が参加できる回峰行体験だけに、皆さん全国からそれぞれの思いを強く胸に抱き比叡山に集まって来られますので、遂行に対する気持ちが全然違います。
 いつにも増して全員が一体になれた感がすごいです。

 今回もそのような気持ちを持つ方々と共に「霊峰」比叡山の各所を巡礼し、皆で無事に遂行できたことに感無量でした。

 このレポートを読んだ方々も、来年は是非この「回峰行体験」にチャレンジしていただき、霊験あらたかな比叡を巡礼しながら、自然と一体となることで、自身の人生を振り返ってみていただきたいと思います。

 そして一緒に遂行の達成感を味わいましょう。


 



41歳を記念して~比叡山文化講座と千日回峰行一日体験①~

去る7月27日を以て、41歳を迎えることができました。
友達の皆様から、Facebookを始め、たくさんのおめでとうMAILを頂きました。ありがとうございました。

 自分的には、10代の頃と別段何ら変わった気はしないのですが…
明らかに「気」は長くなりましたね~(^-^) 先日も職場ですったもんだがありましたが…一般人の枠からはみ出さずに事を終えることができました。やっぱり子供と向き合って生きることで、人を慈しむ事が出来るようになったのかなぁと思います。
 子育てを通じて、あらためて自分自信も躾けられてます。「子供は親の鑑」とはよく言ったものです。

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むすめ子がくれたお誕生日のケーキ


 さて、比叡山では、毎年7月の最終土曜日に「比叡山仏教文化講座」という、各界の著名人や専門家を比叡山に招き、お話を聴くといった公開講座が、毎年開催されております。また、翌日曜日の深夜には、オプションで日本を代表する比叡の荒行「千日回峰行」の一日体験も行われ、数多の傑僧が踏破した比叡山常不軽菩薩巡礼(じょうふぎょうぼさつじゅんれい)の峰道を一度体験しようと、毎年全国より多くの篤信者や健脚自慢の方々が参加されます。

 本年は7月の最終土曜日が27日、偶然にも私の誕生日に講座が開催されるということで、これ勝縁と、この比叡山仏教文化講座と、一日回峰体験に参加してきました。

 比叡山上にある延暦寺会館で開催された文化講座では、
第一講を、天台宗宗議会議長である栢木寛照師が、
第二講を、京都大原の自然の中で暮らす番組を、長期にわたり放映されていました、ハーブ研究家のベニシア・スタンリー=スミスさんが、
第三講では、京都大学大学院で、「味覚」を科学している大学教授の伏木享さんが、
各専門分野の講座を開催されました。
 どの講座も非常に興味深いもので、ためになるお話が聞けました。
 だいたい毎年講師の先生は、お坊さん、有名人(芸能人)、学者さんのパターンだそうです。
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講座の様子

 栢木先生は、「三枝の爆笑アイラブクリニック」や「2時のワイドショー」などに出演されていたので、ご存知の方も多いと思います。
 衆議院選にも自民党から立候補されたことがあるみたいで、さすがというか弁が立ちます。「今の我々の繁栄は、大東亜戦争において、我々のご先祖が命をかけ、自ら犠牲となりもたらされた上に成り立っている。その犠牲となられた尊い方々の心と、戦争の悲惨さを次世代に伝えなければならない」と、三宝筵という団体を組織し、TVや講演等で得たお金をすべてつぎ込んで、毎年子供達を北マリアナに連れて行き、実際に残る旧日本軍の残骸を見せたり、現地の人々との交流を盛んに繰り返しているそうだ。
 TVで拝見したり、先日取材させていただいた時には、おちゃらけた印象があったので、講演を聴いて頭が下がる思いがした。先生は、まさに「漢」だった。

 ベニシアさんは、イングランドの貴族階級の出身だそうで、自宅の敷地面積は京都市とほぼ同じと聴いて目玉が飛び出た。世の中にはやはりとんでもない金持ちが存在する。
 講演内容は、途中で寝てしまったので余り覚えていない。(^-^; スイマセン

 最後は、京都大学大学院で農学研究をされている伏木享さん。
味覚を科学されているので、食いしん坊の私には逃せない講演だ。
 先生が言うには、人間は、油と塩分に依存と中毒をおこしやすく、日本人の国民病と云われる「塩分」を抑えると、おのずと西洋人の好む「油」を求めるようになり、どちらにしても現代社会食生活様式では、食事で健康になるのは難しいそうだ。
 油を欲しがる中毒の実験で、マウスにスイッチを押させ、最初は一度押すと油が出てくる。順に油が出てくるスイッチの回数を1回から2回、4回、8回と倍にして行き、マウスは何度までスイッチを押すかのかという実験を見ていると、油を欲しがり必死でスイッチを押すマウスの姿が、ラーメンを食べるためにチャリンコを漕ぎまくる私の姿に思いっきりかぶってしまった。(>_<)

 そんなこんなで半日十分に楽しめて、為になった講座でした。
後は、琵琶湖を一望に見下ろす展望風呂に入って、精進料理を食べ、回峰行出峰の時間を待つだけ。
回峰行体験の詳細は、次回報告します。
プロフィール

やま法師

Author:やま法師
 生まれはおろか、戸籍を尋ねてみても、江戸時代の文久年間までは、とりあえず遡ることが確認できた京都(宇治郡・醍醐)人。当時の身分制度から考えるとそれ以前よりご先祖さまが、此の地に定住していたことは間違いない。
 
 生来よりのきかん坊で、自由奔放な青春を謳歌し、30代後半まで犯罪スレスレの生業で生計を立てるも、ある日奇瑞の仏縁を頂くことで、これまでの諸行を省みて仏に帰依する。

 得度授戒をしていない凡夫、いわゆる一般人のなかでは、日本仏教の母山である比叡山延暦寺に一番近い立場の人間となれたことへ報恩感謝し、その証として、ブログを通じてリアルな比叡山の情報を発信して行きたい。

 また、職権を利用することで、昨今よく目にする京都の観光情報のみを紹介するブログとは一線を画した、歴史的かつ、宗教的な側面を踏まえ、本物の「心の癒し」を目的とした京都並びに周辺の観光情報を紹介して行きたい。

 その一方、趣味のロードバイクを駆使することで、大好物のラーメンを始めとしたB級グルメ等を細やかに発信し、全国より京都へ訪れてくれた方々への一助となりたい。

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