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本当に癒される京都のパワースポット研究⑳~北方の結界編その②八瀬天満宮と八瀬童子~

 皆さんこんにちは。


 今回のお話は多少内容が濃いため、京都観光を楽しむためにこのページを開けた方は読まれない方がいいかも知れません。
 お話の中には、いわゆる同和問題につながるような表現もありますが、あくまで史実から得た私の歴史観ですので、何卒ご理解を賜りますようお願いいたします。


 前回の本当に癒される京都のパワースポット研究⑲~京を護った北方の結界編~では、私のご近所に対する私怨を発端に、まさに「ひょうたんから駒」の状態で、京都の北方には都の内外を宗教的に分けている結界があるということを発見してしまいました。
 

 今では、ご近所の意地悪のおかげで新たなる京都のパワースポットに気付けたことに非常に感謝しています。
( ^)o(^ ) ヒニク…

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菅原道真公をお祀りする八瀬天満宮の本殿

 さて、前回その北方の結界を結界東端の「元三大師御廟(がんざんだいしみみょう)」から詳しく実証していったのですが、
第2回となる今回は、日本の誇る霊山比叡の麓に位置し、一般的な神社とは異なった独特の宗教形態を持つ「八瀬天満宮」と、その祭祀を司る「鬼の子孫」たちが、私の提唱する北方の結界とどのような関係にあるのか詳しく紹介したいと思います。
 

 八瀬天満宮の創祀は社伝によると、日本史上有数の「祟り神」である「菅原道真」より師と仰がれた延暦寺第13世天台座主「法性坊尊意」が、その怨念から「太政威徳天」として京の人々に畏れられた道真の霊をこの地へ天神として勧請したのが始まりと伝えられています。

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旧街道沿いに面して建つ八瀬天満宮の大鳥居

 境内は、比叡山黒谷へと登る八瀬坂の出発点で、昔から人々の往来が多く、建武3年には後醍醐天皇が足利尊氏勢の攻撃を避けて比叡山に登った道とも云われており、境内裏手にはこの時の村民の活躍を刻む御所谷碑があります。

 また、菅公(菅原道真)がまだ青年学者だった頃、師匠の尊意のもとへと通う途中に一休みしたと伝わる「菅公腰掛石」があります。

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本堂のすぐ脇に置かれている「菅公腰掛石」


 「いささか伝説じみているのではないか?」と疑ってかかる方もおられると思いますが、「第4世安恵天台座主が慈覚大師円仁のご遺志を継承し、12年をかけ『顕揚大戒論』を大成させた時、その序文を若き菅公へ依頼し、見事な序文を執筆した」と記録にもありますので、菅公と延暦寺はかなり深い縁で結ばれていたことは間違いないでしょう。

 『北野天神縁起』によると、菅公の怨霊による天変地異を鎮めるために朝廷から祈祷を命じられた尊意のもとに、ある夜突然菅公の神霊が現れました。尊意が尋ねると菅公は、「都に入って怨みを報じたいが、尊意の法験によってそれが叶わずにいる。たとえ勅宣が下っても調伏するのを辞退してほしい」と懇願しました。
 そこで尊意は「日本の王土に暮らす身としては勅命に対し、2度は断っても3度目には断ることは出来ない」と答えました。それを聞いた菅公は顔色を変え、屋敷に炎を吹きかけ消えたと云います。
 
 法力でその炎を消火し、その後3度の勅命を受けた尊意は、雷鳴轟く中、菅公の怨霊調伏のため山を下りて宮中に急ぐこととなりますが、途中鴨川まで到着すると、突然川の水位が上がり始め、とうとう水は土手を越えて町中に流れ込んできました。
 尊意は手にした数珠をひともみし、その場で祈ると、水の流れは二つに分かれ一つの石が現れ、その石の上に菅公の霊が姿を現し、尊意僧正との問答の末、道真の霊は雲の上に飛び去り、それまでの荒れ狂っていた雷雨はぴたりとやんだそうです。

 と、尊意が菅公を調伏した詳細が記されています。

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延暦寺の根本中道から大講堂へとつながる己講坂には、同じようなエピソードで菅公が天へと昇天したとされる地に、昇天天満宮が建てられている。

 このような経緯を経て、八瀬天満宮に菅公が勧請されることとなったのです。まさに一件落着となるはずなのですが…。

 私はこの地に天満宮が創祀されたことによって一連の騒動が完全に治まったとは考えられないんです。

 この地にはもっと深い因縁に満ちた何かがあるような気がしてなりません。

 先程引用した『北野天神縁起』にも縷々語られているように、尊意の法力は凄まじく天下の大怨霊である菅公でさえも跳ね除けるほどの力を持っていたことでしょう。
 
 尊意はその偉大な力を以って菅公の怨霊のみならず、悪霊穢れたもの都に侵入しないようにこの地に結界を張ったのだと思うんです。

 そのシンボルとして天満宮を創祀したのではないかと考えているんです。

 天満宮創祀後、その法力が効力を発揮し、確かに「悪しき気」の侵入は防げたことでしょう。

 しかし朝廷や延暦寺の僧侶たちは一抹の不安を覚え始めました。それは尊意が遷化した後に徐々にその法力の効力が弱まり、いつ結界が破られ「悪しき気」侵入するのかという不安だったと思います。

 そこで彼らは考えを巡らし一計を案じました。それはこの都の鬼門の地に集まる「穢れ」に対し、違う「穢れ」をぶつけ、それを以て天満宮に奉祀させることで平安を保つ、つまり「毒をもって毒を制しようと」考えたのではないでしょうか。

 そのために必要とされたのが「鬼の子孫」と呼ばれ、古今にわたり京都のみならず日本中「民族学者」がその存在に心奪われた、京都最大の謎の神童(かみわらわ)「八瀬童子」の存在だったと私は思うのです。
 
八瀬地図
見事なほどに「北方の結界」上に建てられた「八瀬天満宮」と「八瀬地域」
 


 八瀬童子とは、比叡山延暦寺雑役駕輿丁(かよちょう 輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指し、現在も変わらず「鬼の子孫」としてこの地に住まっています。

 「鬼の子孫」の発祥は諸説あり、一説では、大江山の鬼「酒呑童子」の子孫とも伝わります。

 伊吹山から比叡山に移り住まい、まだ「伊吹童子」と呼ばれていた酒呑童子は、最澄らにより(延暦寺には伊吹童子が根本中堂建設予定地で大木に変身し、工事の着工の邪魔をしたとあります)里の八瀬へと追われ、大江山へと移るまでこの地の洞穴に「八瀬童子」として住まいしていたと伝わり、現在もその洞穴は地域の西側瓢箪崩山の斜面に「鬼洞(おにがほこら)」として現存しています。

 しかし、当の童子らはその伝説否定しております。童子らの言い伝えでは自らの祖先は、西塔大智院に住んでいた第21世院源天台座主が、その法力を以って冥府の閻魔大王のもとへと『法華経』の講義に出かけたその帰路、御輿を舁いで娑婆世界へと案内した従者「矜羯羅(こんがら)童子」「制吨迦(せいたか)童子」という「鬼」だとしております。
 そのこだわりからか童子らは「鬼の子孫」の「鬼」の漢字には、一般的な「鬼」という字から角を取った「おに」(造字なので変換できません)という漢字を当てています。

 尊意座主が八瀬天満宮を創祀した当時、神仏習合の習わしから付近には妙伝寺を筆頭に天台寺院が数寺存在しておりました。

 しかし各寺社には、特定神主住職はおらず、地域全体で「宮座」というものを形成し、童子らが1年交代で神主や住職の役目を担うという非常に変わった独特宗教体制を明治時代まで続けていました。

 今から1千年も昔に、青蓮院門跡へと宛てた文書には、既にこの地に宮座があったことが記されていることから、八瀬には「日本最古の宮座」が存在していたことは確実で、そしてその選ばれた「1年神主」「生き神さま」として年中行事の際に祀られる存在でした。

宮座
八瀬に伝わる生き神の出立をする「宮座」の人々

 しかし神職の普段の生活は非常に厳しかったそうで、「神殿」と呼ばれた1年神主の生活は、毎朝夕水で体を清め、神社へのお勤めの際には他人(特に女性)に見られてはいけない、食べ物は「肉」はもとより「ネギ」も口に出来ないほか、年中行事の前には自分か「老婆」と呼ばれた人の作ったものしか食べられない。また、夫婦同衾の「女犯」はもとより、農耕も行うことができないなど非常に厳しい潔斎が求められました。

 寺院においては、「小法師」「毛坊主」と呼ばれる「半僧半俗」童子らが住職の代わりを務めており、彼らも神殿と同じような生活を営んでいたと云われます。
 そして宮座の構成員は皆、おしなべて総髪結髪せず、長い髪を垂らし、履物も草履をはいた子供のような独特の姿をしており、その様相から「八瀬童子」と呼ばれるようになったそうです。

童子
現在に甦る「八瀬童子」の姿

 狭い谷間に暮らす彼らは農作業に従事することができず、山林事業のほか、比叡山諸寺雑役天台座主天台宗門跡寺院門主駕輿丁を務めて暮らしていました。

 そして延元元年(1336年)初めて歴史の表舞台に姿を現わします。

 足利尊氏に追われ京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬童子13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護しました。

 彼らはこの功績により、後醍醐天皇から、地租課役の永代免除の綸旨を受けました
 それ以降も歴代の天皇から計23通の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷出仕し、天皇上皇行幸葬送の際に輿を担ぐことが主な仕事となりました。

八瀬童子 大正
大正天皇崩御を受け大喪儀の練習をする八瀬童子

 
 最近では1989年の昭和天皇崩御に伴う大喪儀や翌年の1990年の今上天皇大礼儀に奉仕したことで皆さんの記憶に新しい事でしょう。

八瀬童子 昭和
昭和天皇大喪儀で駕輿丁として奉仕する童子たち

 つまり彼ら「八瀬童子」は、独特の生活習慣や「宗教観」を保ちながら、天皇や天台座主、または門跡門主などの常に「その時代の尊く清い」もののそばで「鬼」として侍り、我が身を楯にすることによって清いものが「穢れる」のを防いできたわけです。

 彼らは「鬼の子孫」として、また、身を以って尊い存在が穢れるのを防ぐという特別な役目から「穢れた存在」、いわゆる「キヨメ」と呼ばれる当時の身分制度上最下層の地位に置かれていました。

 ちなみに大阪教育大学名誉教授で日本史学者丹生谷哲一氏はこの八瀬童子の駕輿丁奉仕のことを「悪魔祓い」と表現しています。

 そのことから八瀬地域もいわゆる「被差別地域」と認識されており、寺社等に奉仕しキヨメを役割とする「夙」と呼ばれる被差別村落として現在を迎えております。

 この「被差別村落」に関するお話は、突き止めて考えていくとかなり複雑なうえ、様々な「言葉狩り」に遭いそうなのであえてこれ以上深く内容には触れませんが、こと「八瀬童子」に関しては、その尊い役目からか、近隣の人々が「賤しい」差別的な意識を持つことはなかったと云われております。


 また、巷ではこの奇奇怪怪「鬼の子孫」ルーツを解明しようと、柳田国男折口信夫を始めとした日本を代表するそうそうたる大学者の先生方が八瀬童子を研究の対象としてきました。

 各大先生方のおおよその研究結果は先程来私が説明した概要にまとめているのですが、ことその成り立ちについては、先生方が誰一人として説明できていない部分があるのです。


それはつまり…


「八瀬童子は一体どうしてこの「八瀬」の地で発祥したのか」ということです。


 大先生方は、「陰陽五行説」をもとに、京の鬼門の方角として発祥した説や、森鷗外が著した『山椒太夫』よろしく「散所(さんじょ)」つまり、「浮浪者が寺や神社の小間使いの職を得るために何処からともなく集まった」という説や、(安寿と厨子王の話で有名な山椒大夫はこの散所の頭領を表しているそうです)まで、諸説がいろいろと錯綜しており、現状これといった決め手の論述がありません。


 残念なことに、これほどのパズルピースを持ちながらも大学者の先生方は、誰一人としてそのピースをうまく繫ぎ合わせることができなかったのではないでしょうか?


 つまり、これらのパズルのピースを私が今回提唱した「北方の結界」説に照らし合わせてつないでみると様々な問題が一気に解決できてしまうのです。


 先ほどから私が申し上げている通り、この「八瀬」という地域は、朝廷などの権力者や延暦寺を始めとした宗教者たちにより意図的に創られた「北方の結界」として、京の内外を宗教的分ける主要地点だったと考えればどうでしょう。


 そうやって考えることで、大先生が唱える「鬼門の方角」にも当てはまりますし、また、用水路の取水地に溜まる落ち葉のように境界線上を境に「悪しき気」が堰きとめられ、そこに浮浪者などが集まり「散所」となったことも十分理解できます。

 何よりこの境界線上を中心に「悪しき気」の侵入を防ぐ「悪魔祓いの奉仕」を生業とする「キヨメ」「夙」となったことへの一番納得のいく回答となるのではないでしょうか。


 ようするに、「八瀬童子」は「北方の結界の管理者」として1千年にわたり身をやつして、朝廷や延暦寺に奉仕してきた訳なんです。


 天満宮が奉祀された後「八瀬童子」たちは、「夙」のキヨメとして「北方の結界」を護り、静かに独自の信仰と生活のスタイルを連綿と営んできました。


 それが後醍醐天皇の命をお救いした名誉がきっかけで、皇室とのご縁が深まり、表舞台において日の当たる存在となりえたのだと思います。

 京都には古くから清められた場所が多いので、ほかにも「夙」がたくさん存在する訳ですから、八瀬のみがクローズアップされるのにはこういった理由があるからではないでしょうか

 その後、「錦の御旗」とのご縁を以って後ろ盾を得たことで、元来の延暦寺に対する奉仕のお役目の心が薄れてしまい、中世には山領の境界争いも幾度か勃発したようです。

 宝永7年、江戸幕府の時の老中秋元喬知の裁許により、八瀬村の利権が認められ、私領・寺領を上地して一村禁裏御料となり、年貢・諸役一切を免除するとの裁決が下された。
 
 そのことがきっかけか、秋元喬知は自殺してしまいますが、その報恩のために村人は喬知を天満宮本殿の脇に秋元大明神として祀り、毎年、女装の青年の頭に八基の燈篭を灯し、赦免地踊(しゃめんちおどり)という一夜の優雅な祭りを繰り広げることになりました。

踊り
赦免地踊の様子


 きっと、両者の間には長い歴史からくる複雑な事情が絡み合った経緯の結果なのだと思いますが…


 しかしながら私の唱える「北方の結界論」からすると、その行為や祭りは本筋を外したものではないかと若干の危惧を感じてしまう気がするのです。


 八瀬童子たちは、「鬼の子孫」の法力で、結界を護るのが本懐だと思うのです。


 そうして、本来の仕事である結界を護ることによって「北方の結界」が健全に保たれ、結界周辺に住む私の身の回りも浄化されてゆき、ご近所の意地悪改善につながっていけると思うのです。


 これだけ濃い話の結末を、私の小さな小さな私怨で締めくくってしまい、ほんとうに申し訳ありませんでした…m(__)m

赦免地踊の話からは冗談ですので、本気にしないでくださいね。



 さて、八瀬地域八瀬天満宮までは、京都市内から白川通を北上すると、大原に向かう国道367号線が花園橋から分かれるので、手前を右に進みます。
やがてトンネルを抜けると道は左にカーブし、七瀬橋で信号のある交差点に差し掛かります。ここまで花園橋から約4.3kmでここを右折します。

 道なりに左にカーブして橋を渡り、再度左にカーブした先の右手に八瀬天満宮社の一ノ鳥居があります。

ここまで七瀬橋から約600mです。

一ノ鳥居から二ノ鳥居までは両側が田んぼの真っ直ぐな参道を進みます。

正面に石段があり、この左側が広いので駐車が可能です。

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石段手前の右手に“弁慶背比べ石”があります。

石段を登った左手に社務所、正面に本殿があります。

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石段から見上げた八瀬天満宮

本殿の背面扉の内側には、道真の本地仏である十一面観音絵像が祀られているそうです。

本殿の右隣りには摂社である秋元神社が、そしてこの周囲には若宮大明神など多数の摂社があります。
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本当に癒される京都のパワースポット研究⑲~都を護った北方の結界編その①~

 皆さん本当にご無沙汰しております。

『比叡山と京都時報』を始めて1年とちょっと、そろそろこのブログへのアクセス数も何とか1万回を数えようとしております。これもひとえに京都を愛する皆様のおかげと日々感謝しております。

会館からブログ用
比叡山頂から眺めた秋空の琵琶湖

 しかしながら最近はFacebookを始めとしたSNS等で、気軽に自分の研究成果を投稿できたり、また自論を展開できたりと、すっかり便利かつ簡素化してしまい、私自身もそのお手軽さからそちらにのめり込んでしまって長い間このブログもほったらかしにしておりました(すぐに「いいね」が付くと、結果がすぐに目に見えますし、評価がダイレクトに伝わって楽しいんですよ)。(;´∀`)

 何かと中途半端になってしまい、今後の方針を色々と思案をしましたが、SNS熱も落ち着いてくると物足りなくなってきて、やっぱりブログを介しながら思ったことや研究成果を写真を交えながらじっくりと発表していきたいと思うようになりました。今後も皆さんにはご迷惑をおかけしますが気軽にお付き合いください。


 さて、私は現在京都市内在住ですが、元々の出身は自己紹介欄にもある通り旧宇治郡字醍醐村となります。つまり京都出身を語りながらも、いわゆる「お土居」の内部の「洛」に住まう「生粋の京都人」とまではいかないんですね。
 20代の頃には市内中心部に何年か住まいましたが、よく居る若者の独り住まいでご近所付き合いもなく、その後は大津市や市内の山科区を転々としておりました。

 数年前、子供が大きくなったのを機会に、さすがに山科界隈の下町住まいでは教育に悪かろうと、市内の閑静な住宅街に越してきました。しかし、ほんの1年もしないうちに色々と不協和音が…。次第に自分が今まで培ってきた京都人の常識が覆ってきて、「俺ってほんまに京都出身なのかなぁ?」と思うようになってくる始末。

 まぁ早い話が、今住んでいるこの地域「地域ぐるみで住民がとにかく意地悪」なんですよ。

 「ほんの数㎞の距離でこんなに人間性が変わるのか」というレベルにさすがに戸惑いを隠せません。

 職場で京都市内出身の同僚や先後輩に相談してみたんですが、「まぁそれが京都人やで」とか、「ほんまの京都を知らんかっただけやで」と言われ、まったく話になりません。

 確かに私の生まれ育った地域は、市内でも有数の「低所得者」が多く暮らす地域で、京都府下以外からの住民も多く流れ込くるいわゆる下町というところですから、もちろん治安も悪く、私の少年の頃なんてもう真夏にもなれば、暴走族の鳴らすバイクの爆音とそれを追いかけるパトカーのけたたましいサイレンが毎夜鳴り響き、ともすれば暴走少年を追いかけまわして恫喝する本職の方々の叫び声を耳にしながら、阪神巨人戦のナイター中継に没頭しているのが日課でした。

 ちなみに私にはたくさんの幼馴染がいますが、親からもらった身体に落書きや改造をせず、今まで生活しているのが私を含め数人だけだという驚愕の真実を漏らしたならば、聞かれたみなさん「ドン引く」レベルの地域で育ったんですよ。

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京都最古の五重塔と云われる国宝醍醐寺五重塔
子供のころそんな大それた文化財とはつゆ知らず、よく遊びに来ました

 山科に居を構えてからも、安価な建売住宅の居並ぶ町だったせいか、隣近所さんはほとんど地方出身の方々でしたね。毎日家の前では子供たちが生きていることを謳歌するかのような大声で包まれ、夜半過ぎには子供を叱るお母さんの九州弁やどこの訛りかわからないような大声、夫婦げんかやそれを仲裁する声をおかずに夕食を食べたものです。

 少し表現が大袈裟過ぎるような感もありますが、まぁ醍醐山科なんて所は主にこんな感じで日常を営む地域なんですね。
 しかしながら、ご近所の皆さんの一体感や結びつきは強く、住民たちの日々「生きてる感」「情の深さ」は飛び抜けています。まさに血の通った交流ができる地域で、私は大好きでした。


 しかし子供の教育のためにやむなく今の町に引っ越したとはいえ、これ程とは…異常すぎます


 子供と同年代の児童数は山科と変わらないはずなのに、子供の笑い声や子供のもつ溢れんばかりの独特のエネルギーをちっとも感じない。引きこもりのオッサンやオバハンを抱えた爺さん婆さんたちが町中を占領し、少し子供が騒ぐと早速クレームをつけてくる。こんな状況では子供たちものびのびと育つ訳がないですよね。「これが日本の近い将来の縮図か」(T_T)と、迫りくる高齢化社会の現実に怯えざるをえない状況です。

 しかしながら私も伝統的醍醐人の血統を受け継ぐ人間ですから、もちろん成長段階で刷り込まれた「やられたらやり返す」をモットーに行動し、その暴走っぷりに、既にご近所で「鼻つまみもの」の称号を欲しいままにはしております。

 しかしそれだけでは何か物足りない。(`^´)

 かと言ってこのブログを使って不特定多数の方々にご近所の悪口を言い放つのも一人前のおっさんとして気が引けます。何より京都のことが好きでこのブログを観ていただいている方々に対して失礼ですからね。

 そんな毎日に、何かこう…だんだんとこの地域周辺には「悪しき気」が停滞しているのではないか?

 そういう「結界」がこの辺りに存在しているのでは無いか?

 と考えるようになってきたんですね。

 それなら…

 私も一応、自称「京都の結界研究の第一人者」と自負しているくらいですからね、いっそのこと「なぜこの地域の人たちは異常に意地悪なのか?」「なぜニート率が高いのか?」を学術的に検証してみようと思ったんです。


 かなり前置きが長くなりましたが、ここから本編が始まります。


 いつもの通りに、パソコンで地図を広げて何時間も見入っていると…


やっぱり… あ~やっぱりね!
と気づきました。

やっぱりこの地域には「結界」が張られていたんです。それも強烈なやつが。

 つまり結論から言うと、私が越してきたこの地域周辺は、京の都を分ける境界線にあたる訳なんです。

 天下統一を果たした豊臣秀吉が、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、「御土居」の築造により定めようとしたという話は有名ですが、その遥か昔、京都がまだ「山背の国」と呼ばれていたころの「三大大社の三角結界」を始め、平安時代に創られた「仏の三角結界」に代表されるように、既に京の都には宗教的な結界が線引きされていました。

 しかし、それだけに終わらず、時の権力者たちは実在した高名な呪術者を使いさらに強力な結界の構築を望みました。
 しかも北面を重点的にです。

 京都の伝説では「大江の鬼」「鞍馬の天狗」など、特に北方で魑魅魍魎が目覚ましく暗躍します。このことからも、北面からの「悪しき気」の侵入強力な結界で防ぐことが急務だったのではなかったのでしょうか?

 そのために引かれたのが下の図の「北方の結界のライン」です。

北方の結界

 見ていただけると一目瞭然ですね。

 この結界は、比叡山随一の霊力者とし名高く、日本全国で「元三大師(がんざんだいし)」として信仰されている「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)」の墓所「元三大師御廟(みみょう)」に始まります。
 その後、全国の総天満宮社である北野天満宮天神様として祀られる「菅原道真」の生前の師として、また、その後,
昌泰の変怨念を以って日本史上有数の祟り神「太政威徳天」となった道真をその霊力で調伏せしめた、第13世天台座主尊意大僧正が、道真の霊を鎮めるために建立した八瀬天満宮を通ります。

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比叡の深谷にひっそりとたたずむ元三大師御廟の拝殿

 それのみならず、既に私のブログ本当に癒される京都のパワースポット研究⑬「金閣寺に隠された、京都No.1パワースポット」で紹介させていただいている日本最大の呪術者「浄蔵貴所の墓所」、皆さんもうお馴染みの同⑱「~安倍清明と平安京の結界~」において紹介した「安倍晴明の墓所」を経て、桂川に架かる渡月橋へと繋がっていきます。

 この渡月橋は、元々はすぐ近くに建つ真言宗のお寺「法輪寺」へと参拝するために懸けられた橋で、この橋をもってこれより以北を保津川、橋が架けられている付近を大堰川、そして以南を桂川と呼びます。
 私は昔からなぜ同じ流れの川が保津川から大堰川、そして桂川と名を変えていくのかがかねがね不思議だったのですが、この「北方の結界」を発見して納得がいきました。

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京の都を内と外に分ける境界線の役目を果たす渡月橋

 つまりこの渡月橋は、単に法輪寺への参拝の架け橋ではなく、京都の中と外を宗教的に分ける結界の橋だったんです。

 またこの結界線上には、京都市内のみならず全国的に有名な心霊スポットや、永きにわたり京の都の裏歴史を担ってきた地域、また、現在にも残る平成の世とは思えない景観が続く京都裏スポットに名を連ねる不法占拠地域等が存在します。

 はたして、この結界線上にこれらの地域が存在するのは偶然からなのか、これから時間をかけてゆっくり一つ一つを検証していきたいと思います。


 そんな訳で、まずは京の都北面を守護する「北方の結界」出発点である「元三大師御廟(がんざんだいしみみょう)」から紹介していきたいと思います。

御廟
拝殿の奥にある御廟

 この元三大師御廟は、比叡山北方「横川地域」に位置しています。かねてよりこのブログを読まれている方はもうご存知とは思いますが、一言に比叡山と申しましてもその境内は東京ドーム500個分と云われるほど広大な敷地面積を誇り、山内は主に「東塔」「西塔」「横川」の大きく3つの地域に分かれています。その中でも比叡山中で最も北に位置するのが「横川地域」で、第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれた地域と云われています。

 元三大師とは、第18代天台座主慈恵大師良源のことを指し、亡くなられた日が正月の三日だったため一般的には元三大師と呼ばれています。

元三大師
良源の御影

 良源は、935年に大規模な火災で灰燼に帰した延暦寺堂塔の再建に努め、比叡山の大伽藍の基礎を造ったと云われています。

 座主就任後には、山内の乱れた風紀を正そうと悪僧数千人のリストラを敢行したり、延暦寺最大にして最高の法儀「法華大会」(天台宗のお坊さんはこの法華大会の試験に合格しないと一人前とは認められません)の基礎をお造りになられたりと、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、様々な功績を遺されました。その数々の偉業から「延暦寺中興の祖」として尊ばれています。

 また、非常に霊験あらたかな僧侶としてもよく知られ、女性を近づけないように自らの身を鬼の姿に変えた伝説が残っていたりだとか、ある時は自らが鬼の姿となって疫病を引き起こす物の怪を追い払い、弟子にスケッチさせたその姿を魔除けの護符として人々に分け与えたそうです。

角大師
魔除けの札として有名な角大師護符

 祇園祭で有名な八坂神社が元々は天台寺院だったことはあまり知られていませんが、『今昔物語』には、当時藤原家の私寺である興福寺の支配下であった祇園感神院(明治以前の八坂神社の呼び名)を良源がその支配下に置くために尽力し、亡くなってからも霊となり興福寺の責任者である仲算と交渉を重ねたとのエピソードが残っています。

 その法力を以ってか、祇園社は延暦寺支配下に入ることが認められ、時代が明治に入るまで、その別当を時の天台座主が務めることとなりました。

 今では全国の寺社仏閣で普通に見られる「おみくじ」も、そもそもは良源がその霊力を以って始めたものがもととなっており、現在でも比叡山内横川の元三大師堂では、良源の御遺志を引き継いで3年間の看経地獄の行に挑んでいる「大師堂執事」によりおみくじが受け継がれています。

 元来比叡山は山学山修の地であった為、開山以来相当数の僧侶が常に何らかの書物に記録を取っておりました。僧侶たちが正確に記録をとっていたためか比叡山では怪しげな奇談や伝説が生まれにくく、良源のように数々の人間離れしたエピソードを持った人物は比叡山1200年の歴史の中で、そうは存在しません。
 そのため、比叡山輩出の僧侶では唯一「信仰の対象」として崇拝され、自らが住まいした定心房跡に建てられた元三大師堂を中心に全国各地で「元三大師信仰」ご本尊としてお祀りされています。

大師堂元三会ブログ
本年9月3日に執り行われた「元三大師御誕生会」で、大師の御生誕を祝う元三大師堂

 良源は亡くなる寸前に弟子を枕元に呼び寄せ、「私の亡骸は比叡山の鬼門の方角に捨て置き、決して掃除はするな。私は魔王となって未来永劫に比叡山を護ろう」と言い残しこの世を去りました。

 弟子たちは良源の言いつけ通りにご遺体を葬り石柱に笠の形をした石を乗せまるでエノキタケのような墓石のみを建てました。それ以来良源の墓所は御廟(みみょう)と呼ばれ、京の都の鬼門を護る比叡山のそのまた鬼門を護る聖地として比叡山全ての人々に畏れられる「魔所」となったそうです。今でも御廟は観光客も近寄らない「比叡山三大魔所」の一つに数えられ、山内にひっそりとたたずみ比叡山にもしものことがある時には、もの凄い轟音が山全体に鳴り響くと云われています。
 墓石
その神聖さと畏敬の念から訪れる人も疎らな御廟の墓石、大師の言いつけ通りほぼ自然に任せ捨て置かれている。

 ちなみに、岩崎陽子さんの『王都妖奇譚』というマンガでは、良源は主人公の安倍清明呪術を教える天台僧として登場します。もちろんそれを証明する根拠などなく、フィクションには間違いないのですが、良源と清明は9才良源が年上なだけなので、この時代に名を馳せた稀代の呪術師の二人が全く縁が無かったとも考えにくいのではないかとも思います。


 比叡山横川の元三大師堂並びに大師堂までの交通アクセスや拝観料、そしてドライブウェの料金等は、ブログのバックナンバーパワースポット研究⑧「仏の結界編」~日本一 比叡山延暦寺の完璧すぎる鬼門封じ~に詳しく紹介しております。参考にしていただければ幸甚です。

本当に癒される京都のパワースポット研究⑱~安倍清明と平安京の結界~前篇

無差別自爆テロが心配されていた冬季オリンピックも無事終焉を迎え、全ての出場選手並びに関係者の皆さまには、本当にお疲れさまでした。大会の成功を心から祝福いたします。



 さて、ここ何回かのパワースポット研究では、完全に日本史最大のミステリーにはまり込んでしまい、日本の黎明期にまで踏み込んでいってしまいました。

 おかげで今では賀茂(鴨)一族のミステリアスな魅力にすっかり心を奪われてしまい、その成り立ちから、大和朝廷との関連性まで、中国の歴史書にまで範囲を広げ、現在も進行形で調査を継続しております。

 しかし、冷静になって考えてみれば、賀茂(鴨)一族の研究にはまればはまるほど、そもそもブログを開設した当初の目的とは全く異をなしてきており、完全に自己満足の世界に浸ってしまっているということに気づきました。

 資料も膨大なうえ、現地に行っての調査も考えると、皆さんに報告できる形にするのに1年単位ほどの時間を要します。

 まさしく「ミイラとりがミイラ」ですよね。

 そこで、賀茂(鴨)一族の神秘的なベールに包まれた真相は、引き続き調査を継続して行くということで、本筋の京都における「パワースポットの研究」を進めて行きたいと思います。


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今回のテーマである、安倍晴明をお祀りする晴明神社


 そんなわけで、今回の「パワースポット研究」では、前回少しだけ触れました、日本歴史上一番有名「陰陽師」である安倍清明

 また、清明の邸跡と伝わる「清明神社」と、私の提唱する「仏の三角結界」の関係性についてお話ししたいと思います。

 安倍晴明(あべのせいめい・921~1005年)は、平安時代の陰陽師で、鎌倉時代から明治時代初めまで朝廷の陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖として有名ですね。

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安倍晴明の御影


 最近では、本、漫画、または映画等の『陰陽師』で、一躍全国区で有名となったので、今さら私の口からウンチクをたれる必要もないですよね。

 一般的な知識は他の方のブログでよく取り上げられていますからね。

 このブログを読まれている方も私より詳しい方はたくさんおられるでしょう。
だから省きますね。
(^◇^)

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堀川通りから見た「晴明神社」。五芒星の掲げられた鳥居が印象的です



 早速本題に入ってしまいますが…


 今回のパワースポット研究で、他の方には絶対に見つけられない、また気づいたこともないような研究成果がありました。

 それは…


「安倍晴明は、仏の結界の存在を知っていた」と、いうことです。


 おいおいって…( ゚Д゚) びっくりするでしょ。

もちろん根拠はちゃんとあります。


 それは、「晴明神社」が建てられている場所にあるんです。


 東西随一「陰陽師」である安倍晴明不思議なパワーをいただこうと、私もよく「晴明神社」に足を運びますが、まぁ~いつ詣でても「晴明さんのパワーにあやかりたい」と、境内はたくさんの人々で賑わっています。


「何を根拠にこれほどの参詣客が訪れるのか?」


 やはり、マスコミや、TVの影響なんでしょうね。とにかく凄いですよ。

 神社の片隅には、パワーを得ようと瞑想にふけっている方々もたくさん見かけます。

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晴明神社のすぐ南にある「一条戻り橋」
晴明は、この橋の影に鬼たちを隠したと云われる。ちなみに「戻り橋」の語源は、以前にお話しした「三好浄蔵」さんに由来します


 さて、話を本題に戻しますが、この「晴明神社」の由緒は、一般的には、元々この地に「晴明の邸」があり、晴明の没後、その遺徳を顕彰し、晴明の霊を弔うため創建されたと伝わっています。

 その規模たるや、現在の境内の数倍の面積を誇ったと伝わっています。


 が、しかし…


 最近の研究によりますと、晴明の邸跡だったというのは、まったく「こじつけ」だそうで、実際の「安倍晴明邸」は、数々の研究者の学術調査により「晴明神社」より東南へ5~600メートルほど下った、現在の「上京区西洞院上長者町通り土御門町」に在ったとほぼ確定されています

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晴明の邸があったと伝わる土御門町。京都情緒あふれる町家が連なっている


 じゃあ、どうして今の場所に「晴明神社」があるの?


 不思議ですよね。

 どうしてそんなややこしいことをしたのでしょう。

 別に、邸跡などと、由緒をこじつける必要はないでしょう。

 これは、何かを重要な事柄を隠そうとしているのではないかと、いつもの私の提唱する「仏の三角結界」ラインをひいてみたわけなんです。


 その結果なんですが…

まぁ下の地図を見てください。

清明神社

 
 現在の「晴明神社」から北東の方角へとラインを伸ばしていくと、私の提唱する「京都三大大社の三角結界」の三つの頂点の一つである「下鴨神社」へと向かいます。

 この「下鴨神社」は、何と、彼を「陰陽師」の道へと導いてくれた師匠「賀茂忠行」の出身一族、賀茂(鴨)一族祖神を祀っている神社なんです。
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賀茂(鴨)一族の祖神を祀る下鴨(賀茂御祖)神社


 また、南西の方角にラインを伸ばすと、これまた「三大大社の三角結界」もう一つの頂点であり、賀茂(鴨)一族と京都を二分した渡来系大豪族「秦氏」祖神として「松尾の猛霊」と畏れられた「松尾大社」へと繋がっています
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秦一族の祖神を祀る松尾大社


 つまり、「晴明神社」は、京都二分した大豪族「賀茂の厳神」賀茂(鴨)一族と、「松尾の猛霊」秦一族アイデンティティの象徴である祖廟を結ぶライン上に存在するのです。


 それだけでもビックリですが、何とそれのみならず下鴨神社へと続いているそのラインをそのまま北東へ延長していくと、そこには、何とこれまた私の提唱する「仏の三角結界」頂点である「比叡山延暦寺」まで繋がってしまうんです。
根本中堂
平安京の鬼門を護る比叡山延暦寺


 これは、一体どういうことでしょう?


 非常に不思議な位置関係だと思いませんか。
  

 つまり、「晴明神社」は、安倍晴明の邸跡云々はまったく関係なく、平安京建都以前より、「山背の地」を支配した大豪族が結界を張り護り続けた「三大大社の三角結界」と、平安京遷都後に、最澄さま空海さんを先頭にした平安新仏教の頭脳集団により「平安の都を守護するため」に張られた、「仏の三角結界」との共通のライン上に何かの意図をもって創建された「結界の一部」ということなんですよ。

結界
「三大大社の三角結界」と「仏の結界」を示す図


 「これは偶然か?」

 このブログで何度も言っていることですが、「しかし事実なんです」よ。

 地図を詳細に見てみると、若干現在の「晴明神社」とずれが見られますが、現在の社殿は昭和25年に建て替えられたそうなんです。

 この神社は、創建当初には莫大な敷地面積を誇っていたわけですから、当時神社の境内では、おそらくこのライン上に何か重要なものが、奉安されていたことでしょう。


 なぜ、この場所に?

 「晴明」は、自らが持てる「陰陽師」の算術技術を駆使してこの地点を割出し、死後は「結界を護る神」としてこの地点に鎮座したのか?
 
 はたまた、この二つの結界の秘密を知る他の誰かが、「晴明」の死後もその「呪術の力」で、平安京の王城鎮護のため、この神社を創建したのか?

 想像するだけでワクワクしますよね。

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晴明神社の本殿 脇には安倍晴明の銅像が安置されている


 さて、みなさんが一番知りたい「この神社は、どんなパワーに溢れているか」?

 つまり、どんな御利益がいただけるかですが。


 まぁ、平安京を護る上で「三大大社の三角結界」「仏の三角結界」という二つの結界が重複する、重要な地点に、これほどの霊力を持った晴明「神」として祀られているのですから、「京都におけるパワースポット」として、かなりの「パワー」がいただけるのは、間違い無いでしょう。


 先日TVの何とかロードショーで放映された『陰陽師』の、平安京を護る「晴明」のワンシーンが目に浮かんできますが、まさしくそのシーンのパワーが実際に込められているパワースポットだと思いますよ。


 ただ、このブログを読まれて「晴明神社」へと参詣に訪れるかたにお願いしたいのは、マスコミ等に煽られたスピリチュアルブームで「安倍晴明」のパワーをいただきに行くのではなく、「晴明」が、その死後も「平安京」の平安を恒久に願い、現在を以ても「神」として鎮座されているという「晴明神社」が創建された深くてありがたい本来の意味をよく理解して、日々の感謝の気持ちを抱いてお参りしてほしいものですね。

 そうすれば、想像以上御利益が得られると思います。
 

 いや、実際に!

 いるんですよ、過去実際に御利益を得た方が。


 次回は、「安倍晴明」のもたらした御利益によって実際に「巨万の富と名声」を得た一族のお話をするつもりです。

楽しみにしておいてください。(^^)/


 ちなみに「晴明神社」へは、京都市営バス自家用車でないと行けません。

 地下鉄ですと、最寄りの駅今出川駅となりますが、ここからだとガッツリ30分は歩かないとダメですので、市バスにしといた方が賢明です。

 市バスは、JR京都駅からは9番で「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩3分くらい、阪急だと四条烏丸駅、地下鉄四条駅より12番「一条戻橋・晴明神社前」。
 
 京阪電車三条駅から市バスの12番、59 番」「堀川今出川下車になります。

 自家用車は、神社の隣「コインパーキング」があります。20分100円でお安いですが、空いているところを見たことがないので、注意が必要ですよ。

本当に癒される京都のパワースポット研究⑰仏の結界編~上賀茂神社に迫る番外編①~

 皆様ご無沙汰しております。

 年末の忙しい時に、愛車とパソコンの両方が一気にブッ壊れてしまい、取りあえず新しい車の購入に予算を取られ、パソコンは後回しに…
以来なかなか更新ができませんでした。

しばらくタブレットでやり過ごしていたものの、ブログのアップにまでは事足りず、先日やっと貧乏サラリーマンの予算が見合うパソコンが見つかったので、購入に踏み込みました。これで、何とかブログの更新ができそうです。

2014御来光③

非常に遅くなりましたが、比叡山から見たご来光です。元日は終日曇天でしたが、雲の切れ間から一瞬だけ拝することができました

 さて、前回のパワースポット研究では、京都における最古にしてもっとも格式の高い上賀茂・下鴨両神社と、私の提唱する「仏の三角結界」との関連性について検証しました。

古代の日本において「祭り」代名詞だった両神社の最重要例祭「葵祭」

とりわけその「葵祭」の中でも両神社の主祭神「賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)」が「生まれ変わる神事」と云われ、神事の中でも最も重要である「「ミアレ(下社は御蔭)の神事」を執り行う両神社の「ミアレ(御蔭)場」と、「仏の三角結界」のラインが奇妙にも一致することを突き止め、地図と照らし合わせて実証しましたね。


 その関連性を解き明かそうと、その後も足しげく図書館へ通い、色々な文献を読み漁りました。その結果、賀茂(鴨)一族についての重要な事実を探し当てたんです。


何とこの上・下両神社の主祭神を一族の祖と仰ぐ賀茂(鴨)一族は、平安時代、朝廷において暦を始め占術や呪術を司る役職「陰陽師」宗家だったんです。

 「陰陽師」は、夢枕獏氏原作の『陰陽師』の中で、安倍晴明呪術手下の鬼たちを使い、妖怪たちと対峙していく姿が一躍脚光を浴びたので、皆さんもよくご存じでしょう。

数年前には狂言師野村萬斎さんの主演で映画化されて大ヒットを飛ばし、一躍日本に「陰陽師」ブーム「安倍晴明」ブームを引き起こしましたね。

 昨今の京都観光では、この「陰陽師」不思議なパワーにあやかりたいと京都を訪れる方々が後を絶たちません。私もたまに「安倍晴明」の屋敷跡と伝わる「晴明神社」を訪れますが、いつも凄い人気です。


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陰陽師ブームで参詣者の絶えない清明神社


以前友人から、このパワースポット研究で「ぜひ安倍晴明のことを取り上げてほしい」とのリクエストを受けていたので、暇を見計らって「晴明神社」を調べていたのですが、ひょんな所から安倍晴明がこの賀茂(鴨)一族「仏の結界」重要な役割を果たしていることがわかってきました。皆さんも非常に興味をお持ちでしょうし、ネタも揃えたので公表したいのですが…

しかし…

 その前に、きっちりと賀茂(鴨)一族と「仏の結界」との関連性を総括しておかなければ、「京都に張り巡らされた結界」について前に進めません。


よって、今回のパワースポット研究は、「仏の結界編⑰上賀茂神社に迫る番外編」として、賀茂(鴨)一族「陰陽師」、はたまた「修験道」の関係についてお話ししたいと思います。

安倍晴明については、この話が落ち着いたらゆっくりと検証させていただきたいと思いますので、もう少し時間をくださいね。(^_-)



さて、「安倍晴明」の大ヒットのおかげで日本中知らない人がいないくらい有名になった「陰陽師」。

この「陰陽道」の日本における宗家、いわゆる総本家というのは安倍晴明ではなく、何を隠そうこの賀茂(鴨)一族なのです。


そもそも「陰陽師」が使いこなす「陰陽道」とは、一体何なのか?
魑魅魍魎都を跋扈するとても摩訶不思議なイメージが付きまといますね。


 本来「陰陽道」とは、5世紀から6世紀頃中国から仏教儒教とともに日本に伝わった「陰陽五行説」が始まりと云われており、その歴史は非常に古く、元々は天文暦数時刻といった自然の観察に関わる普通の一般的な学問でした。


それが時代を経て、自然界瑞祥災厄を判断し、人間界吉凶を占う技術として日本社会独特に発達したと云われています。


陰陽道の伝来当初は、おもに漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶がその役職を担わっていましたが、やがて朝廷が、暦や吉兆に目をつけ、必要とし始めたことから、陰陽道の技術は国家管理独占へとはかられて行きました。


それが平安時代にもなると、宮廷を始め都の内部「怨霊」に対する御霊信仰が興り始め、一気にブレイクしました。


その機会に陰陽道占術呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の生活に影響を与えるようになったそうです。


よって日本の陰陽道は、中国古来「道教」の方術に由来する方違物忌、などの呪術や土地の吉凶に関する風水説医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、また、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げました。

8世紀末になると、仏教の秘法である「密教の呪法」や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響を受け、今私たちが知るようなスピリチュアルな存在となっていきます。


陰陽道の説明はこれくらいにしといて

 当時数いた「陰陽師」の中でも賀茂(鴨)一族が輩出した賀茂忠行(?~930年?)は、時の醍醐天皇より「天下に並ぶもの無し」といわれるほどの天才呪術者であったと云われ、先ほどの「安倍晴明」の師匠になり晴明を育てます。


つまり、中国で生まれ仏教とともに日本に伝来した陰陽道は、本来自然科学的な学問だったはずなのに、どういう訳か日本でミステリアスな独自の進化を遂げ、私たちが現在一般的に知っている日本独特の呪術を用いるような「陰陽道」となったんですね。


 そしてその独自の進化を遂げた「陰陽道」を極めた元祖が、賀茂忠行となるわけなんですね。
 
立砂
上賀茂神社細殿前にある「立砂(たてすな)」賀茂別雷神が降臨された憑代をあらわしていると云われ、このような祭祀方法は賀茂(鴨)一族独自のものと云われている


 さて話を戻しますが、賀茂(鴨)氏の一族である賀茂忠行の出現により、賀茂氏が朝廷内で、暦や地相を占う専門の役職である「陰陽師」の宗家になったということは記録にありますので明白です。


しかし、冷静に考えて、平安時代になっていきなり忠行が一代「陰陽道」極めてしまったというのは少々不自然な気がしませんか?

いかに呪術に対して非凡な才能を発揮したとしても、何らかの基本的な後ろ盾が必要だったはずです。

よって私は、「ひょっとしたら、忠行が歴史の舞台に出現するそれ以前から賀茂(鴨)一族には、すでに占術や呪術のノウハウがあったのでないか」と思うようになりました。


 調べてみたところ、賀茂(鴨)一族の発祥の地と伝わる大和葛城(奈良県御所市)地方は、山岳での修行で仙人になろうとする「修験道」(山伏とか、ホラ貝を吹いて山中で修行する行者さんのこと)の聖地で、その開祖である伝説の呪術者「役行者・小角(えんのぎょうじゃ・おづの)」(634~701年)が生まれた地としても有名です。

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滋賀県東近江市石馬寺に伝わる「役行者」と前鬼、後鬼の木像


この役行者は仙人となり、「雲に乗り、一晩で富士山まで往復し、修行した」とか、「前鬼、後鬼という鬼を手下に使っていた」という伝説が今も残っています。

驚くことに、何とこの役行者は、賀茂一族の出身なんです。


 つまり、日本で独特の進化を遂げた陰陽道において日本を代表する呪術の元祖たる2名は、賀茂(鴨)一族の出身ということなんです。


 ついでに言うと、陰陽道聖典と云われる『金烏玉兎集』を唐より持ち帰った、吉備真備(きびのまきび・695~775年)も賀茂(鴨)一族であり、『今昔物語』では、「陰陽道」の祖と云われています。

だとすれば、賀茂(鴨)一族は、平安建都以前から、すでに「陰陽道」のほかに「修験道」から発生した呪術や占術の技術を持ち、また、吉備真備ら賀茂(鴨)一族の留学生によって、唐より最先端の学問を持ち帰ることにより、陰陽道の技術のノウハウを蓄積していったとしても何ら不思議ではありません。


私は、元来賀茂一族の間で受け継がれてきた「陰陽道」「修験道」にまつわる不思議な力や才能が、特に役行者賀茂忠行には色濃く出てしまい、その結果、賀茂(鴨)一族「陰陽師」「修験道」宗家となったのかも知れないと思いました。


 話を京都の結界に戻しますが、


 重要なのは、この賀茂(鴨)一族が、中国より伝来した自然科学的「陰陽道」に、一族に伝わる呪術的何かを加えて日本独特の「陰陽道」創り上げ、その圧倒的呪術の力を用いて古代の京都(当時の山背の国)に、結界を張ったのでないかとゆうことなんです。

下の地図はいつもの自家製の見にくい地図ですが、まぁ見て下さい。

京都の結界


 不思議なことに、私が提唱する京都に張られた二つの結界下鴨神社松尾大社伏見稲荷を頂点とする「京都三大大社の三角結界」と、神護寺延暦寺極楽寺を頂点とする「仏の三角結界」重要な位置唯一重複している場所は、この賀茂(鴨)一族が奉祀する上・下両神社だけなんです。


 しかも、両方の結界とも起点となる最も重要な地点に上・下両神社は存在するわけなんです。


 まったく凄い偶然ですよね。


しかし、前回にも言わせていただきましたが、「この事実は偶然なのかもしれないですが、確かに事実なのです」

 驚きと同時に、さまざまな疑問も湧き上がってきます。そもそも結界を張る以前に、これほどの高い文化技術を持っている大豪族の賀茂(鴨)一族が、なぜ京都(山背)を始め、奈良岡山島根等の西日本の各地分散しているのか?


 もうこれは日本の歴史上最大の闇に足を踏み込まねば理解できない問題になってしまっていますよね。


 最近は、『古事記』『日本書紀』などの現代口語訳が気軽にネット上で閲覧できるうえ、意識の高いアマチュア歴史研究者の方々による質の高い、かつ、学者先生方のような思考の止まってしまった頭の固い論文ではなく、非常に柔軟な発想で研究をされ、また、その成果をネット上で発表されているので、かなり短時間で色々な方々の日本創生期へのアプローチを学ぶことができます。

 これらのサイト等を閲覧させていただくと、非常に勉強になるだけでなく、良い意味で刺激され、やる気ががぜん出てきます。


 色々な方の考えと、私の研究の結果を考えると、


「賀茂(鴨)一族は、古代日本の支配者であったが、皇室の祖である、大和朝廷に征服された王族だったのではないか?」

そして

被征服後、王族並びに関係眷属は全国にちらばり、各地に祖先を弔う神社を建立していったのではないか?

そこから考えると

「上賀茂・下鴨両神社は、征服された旧王朝の怨霊を慰めるために建立された神社ではないのか?」

ことです。

つまりいわゆる「雷神」というのは「怨霊」のことではないか。

そういえば、前々回にお話しした「上・下両御霊神社」に祀られている八柱の怨霊の内、あとから追加された二柱は「火雷」と「吉備真備」でしたね。


 ここから先は、日本史最大のミステリーに足を踏み込むことになり、かなりスペースを割いてしまいますので、次回詳しくお話ししたいと思います。

 突拍子もない話のようですが、謎を解く手がかりは、あの中国の歴史の中に連綿と受け継がれてきていたのです。

 楽しみにしておいてください。

本当に癒される京都のパワースポット研究⑯仏の結界編~上賀茂茂神社に迫る(後編)~

 今年も早いもので、あともう数日を切ってしまいました。
皆様には今年一年このブログを通して色々とお世話になり、ありがとうございました。よい正月をお迎えください。

 私は、年末年始とお山に籠り、毎年ながら各種法要の撮影に追われるお正月になりそうです。

 このブログをご覧の皆様もぜひ「神と仏のおわす霊峰比叡」にご参拝ください。特に大晦日年越しの「修正会の鬼追い」などは圧巻です。寒さも吹き飛びますよ。

鬼追い
大晦日の年越し、根本中堂前において行われる「鬼追い」の様子

 さて、前回のパワースポット研究では、ついに京都最大のミステリーの一つである上賀茂・下鴨両神社成り立ちに踏み込んでみた訳ですが、結局冒頭の部分に触れたくらいの説明で終わってしまい、両神社と「仏の結界」まで紹介することはできませんでしたね。

 そこで、今回こそは両神社の存在がいかに「仏の結界」を形成する上で重要な役割を果たし、また平安の都の北方の結界として大きな影響を及ぼしてきたかを検証していきたいと思います。



 私は以前から平安京には平安新仏教の頭脳集団により結界が張られていると提唱しているわけですが、結界の中でも特に神護寺~比叡山延暦寺へと続く北方のラインは最初に引かれた最も重要なラインだと常から思っていました。

 何せ、この北方のラインには、下の図のように神護寺から比叡山の間に、前回でも述べました上賀茂神社「御阿礼場(ミアレ場)」下鴨神社における「御蔭場(みかげば)」を見事に通過しているからです。
ミアレ三角

さらに拡大

ミアレ直線


 
 何たる偶然!

 と、思いませんか?

 古代山代の国を代表する大豪族「賀茂(鴨)氏」の始祖をお祀りする両神社の、主祭神が降臨された場所と伝わる最も神聖なる地が、両神社とも仏の結界上に存在しているんです。

 時間軸の概念で考えれば両神社の聖地の方が「仏の結界」以前より存在しています。これぞまさしく神様と仏さま「奇瑞の勝縁」と言えるのではないでしょうか。

 ないしは、後世の最澄さま空海さんを始めとする平安新仏教の頭脳集団がこの地勢の事実を活用「結界」を張られたのか?

 空想がどんどん膨らんでいきます。


オッと!


 私一人が興奮してないで、ブログを読まれている方にもわかるように説明しなければいけないですよね。



 上賀茂・下鴨神社の成り立ち等については過去のパワースポット研究をもう一度読んでもらうとして、
この両神社では、毎年5月15日に例祭として「葵祭」が開催されます。

葵祭り

葵祭の様子

 「葵祭」とは、京都三大祭にとどまらず、祭に際して天皇から直接使者(勅使・ちょくし)が遣わされる日本三大勅祭としても有名で、京都の伝統的風物詩としてご存じの方も多いことと思います。

 ちなみに昔の日本では、「神宮」と言えば伊勢神宮「山」と言えば比叡山、そして「まつり」と言えば、「祇園祭」ではなく「葵祭」を指す言葉でした。

 祭の起源は、欽明天皇の567年、風雨がはげしかったため五穀が実らず、伊吉の若日子が原因を占ったところ、「賀茂の神々の祟りである」という結果がでたことにあるそうです。

 そこで若日子は勅命をおおせつかい、4月の吉日に賀茂神社にて祭礼を行ったそうで、馬には鈴をかけ、人は農耕の神様を意味する猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしました。そうしたところ風雨はおさまり、五穀は豊かに実って民の生活も安泰になったとそうです。

 その時「賀茂の大神」は、「私に会いたかったらいつでもこの場所で、駆競をしなさい」と告げられたそうで、それ以来毎年旧暦の4月の酉の日に例祭として行われるようになったそうです。

 その後819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になり、現在に至るという非常に長い歴史を持つ伝統的な祭事です。

 この例祭のなかで最も重要な神事のひとつが、上社の「御阿礼(ミアレ)の儀」と下社の「御蔭(ミカゲ)の儀」で、共に15日の「葵祭」の当日に向け、3日前の12日に神様の新たな魂を地上にお迎えするという「神さまの生まれ変わりの」神事です。

 下社は、12日の日中、主祭神「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と、その娘神「鴨玉依姫命(かもたまよりひめみこ)」が、葛城の地を後に鴨川をさかのぼり、辿り着いた山代の地で、玉依姫が賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を産み落とした場所、京都市左京区八瀬の「御蔭神社」で、執り行います。

御蔭
下社「御蔭の神事」が執り行われる御蔭神社

 また、上社の場合、主祭神「賀茂別雷命」が降臨されたと伝わる円山の麓にある「御阿礼場」において同じく12日の深夜「御阿礼の儀」を執り行います。

 下社は「御蔭場」を別雷命が「生まれた場所」としているのにも関わらず、上社は「御阿礼場」を「降臨した場所」と断定している事にかなりの「ちぐはぐ感」を感じ、「やっぱり上・下両社の神様は親子ではないんやろうなぁ」などと思いを巡らすのですが、このお話を突き止めて行くと、再び「賀茂(鴨)氏の迷路」から抜け出せなくなってしまいますので、また別の機会におはなししようと思います。


 上社の御阿礼場は、上賀茂神社の本殿より北に数百メートルの所にあり、現在は「京都ゴルフ倶楽部上賀茂コースの17番ティーグラウンド」付近にあります。
ミアレ
ゴルフ場内のため、写真が撮れません。地図でかんにんしてください

 何でゴルフ場の中?

 と思われるでしょう。


 これは、敗戦後京都にやってきた米国進駐軍が、「軍人のレクレーションのためにゴルフ場を作りたい」との要望で、第一軍団軍政官少佐ハロルド・シェフィールドが中心となって造営されたものだそうです。

 表向きには、京都市内で、自然を楽しむための「原生林」と「池」が二つあるという理由から上賀茂神社の神域が選ばれたそうです。

 神域を穢す行為として周囲の人々は猛反対をしたらしいのですが、結局のところは敗戦国の悲しさ。 占領軍に押し切られてしまったらしいです。まさしく「鬼畜米英」の所業。神をも畏れぬ行為ですね。

 しかしこんな所にも戦争の傷跡が残っており、経済活動のために問題を放置してあるとは、なんとなく心が痛いですよね。

「ミアレ」の神事についてですが、門外不出の神事のため、一切公開はされておりません。
まあ、畏れ多くて覗こうとも思いませんけどね。


 さて、下社の御蔭場の件ですが、これが難儀しました。

 なんせ現在御蔭の神事が執り行われている「御蔭神社」は、「仏の結界」のラインより若干南に位置するからです。

 当初は、「あ~ズレてるなぁ」くらいの認識で、そんなに気にはしてなかったんですけどね。

 その後上賀茂神社前編の原稿草案のため資料を集めている時に、京都産業大学教授所功先生がお書きになられた『京都の三大祭』を見つけ、かなり参考にさせていただいたのですが、その中で、下社「御蔭場」古地図が掲載されていたんですよ。
 

 その地図を一目見ると…

 全然現在と違うんですよ。

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『京の葵祭展』 p67 京都文化博物館2003に記載されている旧地御蔭社の図面
当時御蔭場は、八瀬大河(高野川)、谷川、御生川に囲まれた御蔭山(御生山)という単立峰の川中島だったことが覗えます


 平安時代の御蔭場は、地形も場所も全然現在の御蔭神社とは違うんです。

 たしかに下の図のように、現在の京福電鉄八瀬駅付近の地図を見つめると、駅付近の地形がかなり不自然ですよね。

湾曲
京福電鉄八瀬駅付近の現在図

 高野川の流れが「ゴボッ」と、この地点だけ明らかに不自然に湾曲していませんか。


 不思議に思い調べてみると、

 やっぱりありました。


 下鴨神社の宮司である新木直人氏の『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』によると、この場所は宝暦8年(1758)8月22日に長雨のためにおこった土砂崩れで、神社東側が土石流で埋もれてしまったそうです。  

 また、文政13年(1830)には、大地震により比叡山の西峰が大きく崩壊し、そのため高野川の流れが完全にかわってしまい社殿が完全に流損したそうなんです。
 
 そのため天保5年(1834)に現在の新社地社殿を上棟し、御蔭山城の跡御蔭神社として再建したそうです。

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御蔭神社から山中に登ると、山城であった石垣跡が今も残っている


 つまり、現在の御蔭場は南に移動している訳なんですね。


そうなると、話は変わって来ます。早速新木氏の説をもとに旧社殿の跡地を検証してみました。


高野川の流れと、先の古地図から想像すると…

御蔭
平安時代の高野川の流れと、旧御蔭場の想像図


するとどうでしょう、ほぼピッタリと「仏の結界」当てはまってしまいました


 なぜか涙が止まりません。

 頭の中を、当代きっての芸術家、棟方志功氏の言葉がよぎります。

 氏は、仏教彫刻を得意とし、その芸術性を「仏さまを彫っているのではなく木の中に埋もれておられる仏様さまを見つけ出し掘り起こしているだけ」と、述べたそうです。

 つまり「自らの意思ではなく、仏の意志に従っているだけ」ということらしいです。

 わたしも今まったく同じ感覚なのです。

 「仏の三角形」を形成する最後の一点「極楽寺」の時も、「当てずっぽう」で線を引くと、そこに平安寺院代表するような大伽藍が存在しており、日本の仏教界を変えるような大宗教家大いなる礎となった寺院が建立されていました。

 また、大文字山から神護寺にかけて引かれた「仏の結界」の中心線上には、足利将軍家繁栄のために築かれた大伽藍が三寺院も建立されていました

 これだけ偶然とはいえない数々の事実が重なると、
私が「仏の結界」を提唱しているのではなく、神さまや仏さまのご意志で、私が「掘り起こして」いる感覚にとらわれてくるのです。

 なにか「大きな意志」に触れることができたようなそんな感動を覚えます。

 話を戻します。

 つまり

 京都のみならず、日本を代表する、上賀茂神社下鴨神社両神社最も神聖なる地は仏の結界上に存在するのです。

 偶然かもしれません。

 しかし事実なんです。

この事実をもとに結界が張られたのかも知れません。

 いずれお話しますが、私は室町幕府を興した足利将軍家の衰退は、十代将軍足利義稙により「仏の結界」が放棄されたからだと思っています。

 この事例もとに時代考証すると、天皇が東京に出向かれるきっかけとなった「明治維新」の始まりは、御蔭神社を山中に移した頃と重なってきます

高野川
湾曲した高野川の流れから御蔭山(写真中央)、その背後には比叡山がそびえる

もしかしてだけど…
(もしかしてだけど)

「結界を動かしてしまったことで、悠久の平安の都が平安でなくなるきっかけになったのかも知れないんじゃないの?」

と歌いだしたくなりますね。

 
 下賀茂神社の御蔭場である御蔭神社へは、京福電鉄「八瀬比叡山口」まで電車で行き、到着後歩いて10分ほどの場所にあります。
 まぁ車で訪れても、少々ならば駐禁を切られることはないと思いますが。

 めったに人も来ない寂しい場所ですが、鴨一族が山代の地に辿り着いた悠久のロマンを感じるには最高の場所だと思いますよ。

 上賀茂神社の御阿礼場は、先ほども申しました通り、京都ゴルフ倶楽部の敷地内となりますので、ゴルファー以外には立ち入ることはできません。もしプレイに訪れた時には、一礼をして通りたいものですね。

上賀茂神社「御阿礼場」
 
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下鴨神社「御蔭神社」


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プロフィール

やま法師

Author:やま法師
 生まれはおろか、戸籍を尋ねてみても、江戸時代の文久年間までは、とりあえず遡ることが確認できた京都(宇治郡・醍醐)人。当時の身分制度から考えるとそれ以前よりご先祖さまが、此の地に定住していたことは間違いない。
 
 生来よりのきかん坊で、自由奔放な青春を謳歌し、30代後半まで犯罪スレスレの生業で生計を立てるも、ある日奇瑞の仏縁を頂くことで、これまでの諸行を省みて仏に帰依する。

 得度授戒をしていない凡夫、いわゆる一般人のなかでは、日本仏教の母山である比叡山延暦寺に一番近い立場の人間となれたことへ報恩感謝し、その証として、ブログを通じてリアルな比叡山の情報を発信して行きたい。

 また、職権を利用することで、昨今よく目にする京都の観光情報のみを紹介するブログとは一線を画した、歴史的かつ、宗教的な側面を踏まえ、本物の「心の癒し」を目的とした京都並びに周辺の観光情報を紹介して行きたい。

 その一方、趣味のロードバイクを駆使することで、大好物のラーメンを始めとしたB級グルメ等を細やかに発信し、全国より京都へ訪れてくれた方々への一助となりたい。

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