本当に癒される京都のパワースポット研究⑳~北方の結界編その②八瀬天満宮と八瀬童子~
皆さんこんにちは。
今回のお話は多少内容が濃いため、京都観光を楽しむためにこのページを開けた方は読まれない方がいいかも知れません。
お話の中には、いわゆる同和問題につながるような表現もありますが、あくまで史実から得た私の歴史観ですので、何卒ご理解を賜りますようお願いいたします。
前回の本当に癒される京都のパワースポット研究⑲~京を護った北方の結界編~では、私のご近所に対する私怨を発端に、まさに「ひょうたんから駒」の状態で、京都の北方には都の内外を宗教的に分けている結界があるということを発見してしまいました。
今では、ご近所の意地悪のおかげで新たなる京都のパワースポットに気付けたことに非常に感謝しています。
( ^)o(^ ) ヒニク…

菅原道真公をお祀りする八瀬天満宮の本殿
さて、前回その北方の結界を結界東端の「元三大師御廟(がんざんだいしみみょう)」から詳しく実証していったのですが、
第2回となる今回は、日本の誇る霊山比叡の麓に位置し、一般的な神社とは異なった独特の宗教形態を持つ「八瀬天満宮」と、その祭祀を司る「鬼の子孫」たちが、私の提唱する北方の結界とどのような関係にあるのか詳しく紹介したいと思います。
八瀬天満宮の創祀は社伝によると、日本史上有数の「祟り神」である「菅原道真」より師と仰がれた延暦寺第13世天台座主「法性坊尊意」が、その怨念から「太政威徳天」として京の人々に畏れられた道真の霊をこの地へ天神として勧請したのが始まりと伝えられています。

旧街道沿いに面して建つ八瀬天満宮の大鳥居
境内は、比叡山黒谷へと登る八瀬坂の出発点で、昔から人々の往来が多く、建武3年には後醍醐天皇が足利尊氏勢の攻撃を避けて比叡山に登った道とも云われており、境内裏手にはこの時の村民の活躍を刻む御所谷碑があります。
また、菅公(菅原道真)がまだ青年学者だった頃、師匠の尊意のもとへと通う途中に一休みしたと伝わる「菅公腰掛石」があります。

本堂のすぐ脇に置かれている「菅公腰掛石」
「いささか伝説じみているのではないか?」と疑ってかかる方もおられると思いますが、「第4世安恵天台座主が慈覚大師円仁のご遺志を継承し、12年をかけ『顕揚大戒論』を大成させた時、その序文を若き菅公へ依頼し、見事な序文を執筆した」と記録にもありますので、菅公と延暦寺はかなり深い縁で結ばれていたことは間違いないでしょう。
『北野天神縁起』によると、菅公の怨霊による天変地異を鎮めるために朝廷から祈祷を命じられた尊意のもとに、ある夜突然菅公の神霊が現れました。尊意が尋ねると菅公は、「都に入って怨みを報じたいが、尊意の法験によってそれが叶わずにいる。たとえ勅宣が下っても調伏するのを辞退してほしい」と懇願しました。
そこで尊意は「日本の王土に暮らす身としては勅命に対し、2度は断っても3度目には断ることは出来ない」と答えました。それを聞いた菅公は顔色を変え、屋敷に炎を吹きかけ消えたと云います。
法力でその炎を消火し、その後3度の勅命を受けた尊意は、雷鳴轟く中、菅公の怨霊調伏のため山を下りて宮中に急ぐこととなりますが、途中鴨川まで到着すると、突然川の水位が上がり始め、とうとう水は土手を越えて町中に流れ込んできました。
尊意は手にした数珠をひともみし、その場で祈ると、水の流れは二つに分かれ一つの石が現れ、その石の上に菅公の霊が姿を現し、尊意僧正との問答の末、道真の霊は雲の上に飛び去り、それまでの荒れ狂っていた雷雨はぴたりとやんだそうです。
と、尊意が菅公を調伏した詳細が記されています。

延暦寺の根本中道から大講堂へとつながる己講坂には、同じようなエピソードで菅公が天へと昇天したとされる地に、昇天天満宮が建てられている。
このような経緯を経て、八瀬天満宮に菅公が勧請されることとなったのです。まさに一件落着となるはずなのですが…。
私はこの地に天満宮が創祀されたことによって一連の騒動が完全に治まったとは考えられないんです。
この地にはもっと深い因縁に満ちた何かがあるような気がしてなりません。
先程引用した『北野天神縁起』にも縷々語られているように、尊意の法力は凄まじく天下の大怨霊である菅公でさえも跳ね除けるほどの力を持っていたことでしょう。
尊意はその偉大な力を以って菅公の怨霊のみならず、悪霊や穢れたものが都に侵入しないようにこの地に結界を張ったのだと思うんです。
そのシンボルとして天満宮を創祀したのではないかと考えているんです。
天満宮創祀後、その法力が効力を発揮し、確かに「悪しき気」の侵入は防げたことでしょう。
しかし朝廷や延暦寺の僧侶たちは一抹の不安を覚え始めました。それは尊意が遷化した後に徐々にその法力の効力が弱まり、いつ結界が破られ「悪しき気」が侵入するのかという不安だったと思います。
そこで彼らは考えを巡らし一計を案じました。それはこの都の鬼門の地に集まる「穢れ」に対し、違う「穢れ」をぶつけ、それを以て天満宮に奉祀させることで平安を保つ、つまり「毒をもって毒を制しようと」考えたのではないでしょうか。
そのために必要とされたのが「鬼の子孫」と呼ばれ、古今にわたり京都のみならず日本中の「民族学者」がその存在に心奪われた、京都最大の謎の神童(かみわらわ)「八瀬童子」の存在だったと私は思うのです。

見事なほどに「北方の結界」上に建てられた「八瀬天満宮」と「八瀬地域」
八瀬童子とは、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(かよちょう 輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指し、現在も変わらず「鬼の子孫」としてこの地に住まっています。
「鬼の子孫」の発祥は諸説あり、一説では、大江山の鬼「酒呑童子」の子孫とも伝わります。
伊吹山から比叡山に移り住まい、まだ「伊吹童子」と呼ばれていた酒呑童子は、最澄らにより(延暦寺には伊吹童子が根本中堂建設予定地で大木に変身し、工事の着工の邪魔をしたとあります)里の八瀬へと追われ、大江山へと移るまでこの地の洞穴に「八瀬童子」として住まいしていたと伝わり、現在もその洞穴は地域の西側瓢箪崩山の斜面に「鬼洞(おにがほこら)」として現存しています。
しかし、当の童子らはその伝説を否定しております。童子らの言い伝えでは自らの祖先は、西塔大智院に住んでいた第21世院源天台座主が、その法力を以って冥府の閻魔大王のもとへと『法華経』の講義に出かけたその帰路、御輿を舁いで娑婆世界へと案内した従者の「矜羯羅(こんがら)童子」と「制吨迦(せいたか)童子」という「鬼」だとしております。
そのこだわりからか童子らは「鬼の子孫」の「鬼」の漢字には、一般的な「鬼」という字から角を取った「おに」(造字なので変換できません)という漢字を当てています。
尊意座主が八瀬天満宮を創祀した当時、神仏習合の習わしから付近には妙伝寺を筆頭に天台寺院が数寺存在しておりました。
しかし各寺社には、特定の神主や住職はおらず、地域全体で「宮座」というものを形成し、童子らが1年交代で神主や住職の役目を担うという非常に変わった独特の宗教体制を明治時代まで続けていました。
今から1千年も昔に、青蓮院門跡へと宛てた文書には、既にこの地に宮座があったことが記されていることから、八瀬には「日本最古の宮座」が存在していたことは確実で、そしてその選ばれた「1年神主」は「生き神さま」として年中行事の際に祀られる存在でした。

八瀬に伝わる生き神の出立をする「宮座」の人々
しかし神職の普段の生活は非常に厳しかったそうで、「神殿」と呼ばれた1年神主の生活は、毎朝夕水で体を清め、神社へのお勤めの際には他人(特に女性)に見られてはいけない、食べ物は「肉」はもとより「ネギ」も口に出来ないほか、年中行事の前には自分か「老婆」と呼ばれた人の作ったものしか食べられない。また、夫婦同衾の「女犯」はもとより、農耕も行うことができないなど非常に厳しい潔斎が求められました。
寺院においては、「小法師」や「毛坊主」と呼ばれる「半僧半俗」の童子らが住職の代わりを務めており、彼らも神殿と同じような生活を営んでいたと云われます。
そして宮座の構成員は皆、おしなべて総髪で結髪せず、長い髪を垂らし、履物も草履をはいた子供のような独特の姿をしており、その様相から「八瀬童子」と呼ばれるようになったそうです。

現在に甦る「八瀬童子」の姿
狭い谷間に暮らす彼らは農作業に従事することができず、山林事業のほか、比叡山諸寺の雑役に天台座主や天台宗門跡寺院門主の駕輿丁を務めて暮らしていました。
そして延元元年(1336年)初めて歴史の表舞台に姿を現わします。
足利尊氏に追われ京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬童子13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護しました。
彼らはこの功績により、後醍醐天皇から、地租課役の永代免除の綸旨を受けました。
それ以降も歴代の天皇から計23通の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し、天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことが主な仕事となりました。

大正天皇崩御を受け大喪儀の練習をする八瀬童子
最近では1989年の昭和天皇崩御に伴う大喪儀や翌年の1990年の今上天皇の大礼儀に奉仕したことで皆さんの記憶に新しい事でしょう。

昭和天皇大喪儀で駕輿丁として奉仕する童子たち
つまり彼ら「八瀬童子」は、独特の生活習慣や「宗教観」を保ちながら、天皇や天台座主、または門跡門主などの常に「その時代の尊く清い」もののそばで「鬼」として侍り、我が身を楯にすることによって清いものが「穢れる」のを防いできたわけです。
彼らは「鬼の子孫」として、また、身を以って尊い存在が穢れるのを防ぐという特別な役目から「穢れた存在」、いわゆる「キヨメ」と呼ばれる当時の身分制度上最下層の地位に置かれていました。
ちなみに大阪教育大学名誉教授で日本史学者の丹生谷哲一氏はこの八瀬童子の駕輿丁奉仕のことを「悪魔祓い」と表現しています。
そのことから八瀬地域もいわゆる「被差別地域」と認識されており、寺社等に奉仕しキヨメを役割とする「夙」と呼ばれる被差別村落として現在を迎えております。
この「被差別村落」に関するお話は、突き止めて考えていくとかなり複雑なうえ、様々な「言葉狩り」に遭いそうなのであえてこれ以上深く内容には触れませんが、こと「八瀬童子」に関しては、その尊い役目からか、近隣の人々が「賤しい」と差別的な意識を持つことはなかったと云われております。
また、巷ではこの奇奇怪怪な「鬼の子孫」のルーツを解明しようと、柳田国男や折口信夫を始めとした日本を代表するそうそうたる大学者の先生方が八瀬童子を研究の対象としてきました。
各大先生方のおおよその研究結果は先程来私が説明した概要にまとめているのですが、ことその成り立ちについては、先生方が誰一人として説明できていない部分があるのです。
それはつまり…
「八瀬童子は一体どうしてこの「八瀬」の地で発祥したのか」ということです。
大先生方は、「陰陽五行説」をもとに、京の鬼門の方角として発祥した説や、森鷗外が著した『山椒太夫』よろしく「散所(さんじょ)」つまり、「浮浪者が寺や神社の小間使いの職を得るために何処からともなく集まった」という説や、(安寿と厨子王の話で有名な山椒大夫はこの散所の頭領を表しているそうです)まで、諸説がいろいろと錯綜しており、現状これといった決め手の論述がありません。
残念なことに、これほどのパズルのピースを持ちながらも大学者の先生方は、誰一人としてそのピースをうまく繫ぎ合わせることができなかったのではないでしょうか?
つまり、これらのパズルのピースを私が今回提唱した「北方の結界」説に照らし合わせてつないでみると様々な問題が一気に解決できてしまうのです。
先ほどから私が申し上げている通り、この「八瀬」という地域は、朝廷などの権力者や延暦寺を始めとした宗教者たちにより意図的に創られた「北方の結界」として、京の内外を宗教的分ける主要地点だったと考えればどうでしょう。
そうやって考えることで、大先生が唱える「鬼門の方角」にも当てはまりますし、また、用水路の取水地に溜まる落ち葉のように境界線上を境に「悪しき気」が堰きとめられ、そこに浮浪者などが集まり「散所」となったことも十分理解できます。
何よりこの境界線上を中心に「悪しき気」の侵入を防ぐ「悪魔祓いの奉仕」を生業とする「キヨメ」の「夙」となったことへの一番納得のいく回答となるのではないでしょうか。
ようするに、「八瀬童子」は「北方の結界の管理者」として1千年にわたり身をやつして、朝廷や延暦寺に奉仕してきた訳なんです。
天満宮が奉祀された後「八瀬童子」たちは、「夙」のキヨメとして「北方の結界」を護り、静かに独自の信仰と生活のスタイルを連綿と営んできました。
それが後醍醐天皇の命をお救いした名誉がきっかけで、皇室とのご縁が深まり、表舞台において日の当たる存在となりえたのだと思います。
京都には古くから清められた場所が多いので、ほかにも「夙」がたくさん存在する訳ですから、八瀬のみがクローズアップされるのにはこういった理由があるからではないでしょうか
その後、「錦の御旗」とのご縁を以って後ろ盾を得たことで、元来の延暦寺に対する奉仕のお役目の心が薄れてしまい、中世には山領の境界争いも幾度か勃発したようです。
宝永7年、江戸幕府の時の老中秋元喬知の裁許により、八瀬村の利権が認められ、私領・寺領を上地して一村禁裏御料となり、年貢・諸役一切を免除するとの裁決が下された。
そのことがきっかけか、秋元喬知は自殺してしまいますが、その報恩のために村人は喬知を天満宮本殿の脇に秋元大明神として祀り、毎年、女装の青年の頭に八基の燈篭を灯し、赦免地踊(しゃめんちおどり)という一夜の優雅な祭りを繰り広げることになりました。

赦免地踊の様子
きっと、両者の間には長い歴史からくる複雑な事情が絡み合った経緯の結果なのだと思いますが…
しかしながら私の唱える「北方の結界論」からすると、その行為や祭りは本筋を外したものではないかと若干の危惧を感じてしまう気がするのです。
八瀬童子たちは、「鬼の子孫」の法力で、結界を護るのが本懐だと思うのです。
そうして、本来の仕事である結界を護ることによって「北方の結界」が健全に保たれ、結界周辺に住む私の身の回りも浄化されてゆき、ご近所の意地悪改善につながっていけると思うのです。
これだけ濃い話の結末を、私の小さな小さな私怨で締めくくってしまい、ほんとうに申し訳ありませんでした…m(__)m
赦免地踊の話からは冗談ですので、本気にしないでくださいね。
さて、八瀬地域と八瀬天満宮までは、京都市内から白川通を北上すると、大原に向かう国道367号線が花園橋から分かれるので、手前を右に進みます。
やがてトンネルを抜けると道は左にカーブし、七瀬橋で信号のある交差点に差し掛かります。ここまで花園橋から約4.3kmでここを右折します。
道なりに左にカーブして橋を渡り、再度左にカーブした先の右手に八瀬天満宮社の一ノ鳥居があります。
ここまで七瀬橋から約600mです。
一ノ鳥居から二ノ鳥居までは両側が田んぼの真っ直ぐな参道を進みます。
正面に石段があり、この左側が広いので駐車が可能です。

石段手前の右手に“弁慶背比べ石”があります。
石段を登った左手に社務所、正面に本殿があります。

石段から見上げた八瀬天満宮
本殿の背面扉の内側には、道真の本地仏である十一面観音絵像が祀られているそうです。
本殿の右隣りには摂社である秋元神社が、そしてこの周囲には若宮大明神など多数の摂社があります。
今回のお話は多少内容が濃いため、京都観光を楽しむためにこのページを開けた方は読まれない方がいいかも知れません。
お話の中には、いわゆる同和問題につながるような表現もありますが、あくまで史実から得た私の歴史観ですので、何卒ご理解を賜りますようお願いいたします。
前回の本当に癒される京都のパワースポット研究⑲~京を護った北方の結界編~では、私のご近所に対する私怨を発端に、まさに「ひょうたんから駒」の状態で、京都の北方には都の内外を宗教的に分けている結界があるということを発見してしまいました。
今では、ご近所の意地悪のおかげで新たなる京都のパワースポットに気付けたことに非常に感謝しています。
( ^)o(^ ) ヒニク…

菅原道真公をお祀りする八瀬天満宮の本殿
さて、前回その北方の結界を結界東端の「元三大師御廟(がんざんだいしみみょう)」から詳しく実証していったのですが、
第2回となる今回は、日本の誇る霊山比叡の麓に位置し、一般的な神社とは異なった独特の宗教形態を持つ「八瀬天満宮」と、その祭祀を司る「鬼の子孫」たちが、私の提唱する北方の結界とどのような関係にあるのか詳しく紹介したいと思います。
八瀬天満宮の創祀は社伝によると、日本史上有数の「祟り神」である「菅原道真」より師と仰がれた延暦寺第13世天台座主「法性坊尊意」が、その怨念から「太政威徳天」として京の人々に畏れられた道真の霊をこの地へ天神として勧請したのが始まりと伝えられています。

旧街道沿いに面して建つ八瀬天満宮の大鳥居
境内は、比叡山黒谷へと登る八瀬坂の出発点で、昔から人々の往来が多く、建武3年には後醍醐天皇が足利尊氏勢の攻撃を避けて比叡山に登った道とも云われており、境内裏手にはこの時の村民の活躍を刻む御所谷碑があります。
また、菅公(菅原道真)がまだ青年学者だった頃、師匠の尊意のもとへと通う途中に一休みしたと伝わる「菅公腰掛石」があります。

本堂のすぐ脇に置かれている「菅公腰掛石」
「いささか伝説じみているのではないか?」と疑ってかかる方もおられると思いますが、「第4世安恵天台座主が慈覚大師円仁のご遺志を継承し、12年をかけ『顕揚大戒論』を大成させた時、その序文を若き菅公へ依頼し、見事な序文を執筆した」と記録にもありますので、菅公と延暦寺はかなり深い縁で結ばれていたことは間違いないでしょう。
『北野天神縁起』によると、菅公の怨霊による天変地異を鎮めるために朝廷から祈祷を命じられた尊意のもとに、ある夜突然菅公の神霊が現れました。尊意が尋ねると菅公は、「都に入って怨みを報じたいが、尊意の法験によってそれが叶わずにいる。たとえ勅宣が下っても調伏するのを辞退してほしい」と懇願しました。
そこで尊意は「日本の王土に暮らす身としては勅命に対し、2度は断っても3度目には断ることは出来ない」と答えました。それを聞いた菅公は顔色を変え、屋敷に炎を吹きかけ消えたと云います。
法力でその炎を消火し、その後3度の勅命を受けた尊意は、雷鳴轟く中、菅公の怨霊調伏のため山を下りて宮中に急ぐこととなりますが、途中鴨川まで到着すると、突然川の水位が上がり始め、とうとう水は土手を越えて町中に流れ込んできました。
尊意は手にした数珠をひともみし、その場で祈ると、水の流れは二つに分かれ一つの石が現れ、その石の上に菅公の霊が姿を現し、尊意僧正との問答の末、道真の霊は雲の上に飛び去り、それまでの荒れ狂っていた雷雨はぴたりとやんだそうです。
と、尊意が菅公を調伏した詳細が記されています。

延暦寺の根本中道から大講堂へとつながる己講坂には、同じようなエピソードで菅公が天へと昇天したとされる地に、昇天天満宮が建てられている。
このような経緯を経て、八瀬天満宮に菅公が勧請されることとなったのです。まさに一件落着となるはずなのですが…。
私はこの地に天満宮が創祀されたことによって一連の騒動が完全に治まったとは考えられないんです。
この地にはもっと深い因縁に満ちた何かがあるような気がしてなりません。
先程引用した『北野天神縁起』にも縷々語られているように、尊意の法力は凄まじく天下の大怨霊である菅公でさえも跳ね除けるほどの力を持っていたことでしょう。
尊意はその偉大な力を以って菅公の怨霊のみならず、悪霊や穢れたものが都に侵入しないようにこの地に結界を張ったのだと思うんです。
そのシンボルとして天満宮を創祀したのではないかと考えているんです。
天満宮創祀後、その法力が効力を発揮し、確かに「悪しき気」の侵入は防げたことでしょう。
しかし朝廷や延暦寺の僧侶たちは一抹の不安を覚え始めました。それは尊意が遷化した後に徐々にその法力の効力が弱まり、いつ結界が破られ「悪しき気」が侵入するのかという不安だったと思います。
そこで彼らは考えを巡らし一計を案じました。それはこの都の鬼門の地に集まる「穢れ」に対し、違う「穢れ」をぶつけ、それを以て天満宮に奉祀させることで平安を保つ、つまり「毒をもって毒を制しようと」考えたのではないでしょうか。
そのために必要とされたのが「鬼の子孫」と呼ばれ、古今にわたり京都のみならず日本中の「民族学者」がその存在に心奪われた、京都最大の謎の神童(かみわらわ)「八瀬童子」の存在だったと私は思うのです。

見事なほどに「北方の結界」上に建てられた「八瀬天満宮」と「八瀬地域」
八瀬童子とは、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(かよちょう 輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指し、現在も変わらず「鬼の子孫」としてこの地に住まっています。
「鬼の子孫」の発祥は諸説あり、一説では、大江山の鬼「酒呑童子」の子孫とも伝わります。
伊吹山から比叡山に移り住まい、まだ「伊吹童子」と呼ばれていた酒呑童子は、最澄らにより(延暦寺には伊吹童子が根本中堂建設予定地で大木に変身し、工事の着工の邪魔をしたとあります)里の八瀬へと追われ、大江山へと移るまでこの地の洞穴に「八瀬童子」として住まいしていたと伝わり、現在もその洞穴は地域の西側瓢箪崩山の斜面に「鬼洞(おにがほこら)」として現存しています。
しかし、当の童子らはその伝説を否定しております。童子らの言い伝えでは自らの祖先は、西塔大智院に住んでいた第21世院源天台座主が、その法力を以って冥府の閻魔大王のもとへと『法華経』の講義に出かけたその帰路、御輿を舁いで娑婆世界へと案内した従者の「矜羯羅(こんがら)童子」と「制吨迦(せいたか)童子」という「鬼」だとしております。
そのこだわりからか童子らは「鬼の子孫」の「鬼」の漢字には、一般的な「鬼」という字から角を取った「おに」(造字なので変換できません)という漢字を当てています。
尊意座主が八瀬天満宮を創祀した当時、神仏習合の習わしから付近には妙伝寺を筆頭に天台寺院が数寺存在しておりました。
しかし各寺社には、特定の神主や住職はおらず、地域全体で「宮座」というものを形成し、童子らが1年交代で神主や住職の役目を担うという非常に変わった独特の宗教体制を明治時代まで続けていました。
今から1千年も昔に、青蓮院門跡へと宛てた文書には、既にこの地に宮座があったことが記されていることから、八瀬には「日本最古の宮座」が存在していたことは確実で、そしてその選ばれた「1年神主」は「生き神さま」として年中行事の際に祀られる存在でした。

八瀬に伝わる生き神の出立をする「宮座」の人々
しかし神職の普段の生活は非常に厳しかったそうで、「神殿」と呼ばれた1年神主の生活は、毎朝夕水で体を清め、神社へのお勤めの際には他人(特に女性)に見られてはいけない、食べ物は「肉」はもとより「ネギ」も口に出来ないほか、年中行事の前には自分か「老婆」と呼ばれた人の作ったものしか食べられない。また、夫婦同衾の「女犯」はもとより、農耕も行うことができないなど非常に厳しい潔斎が求められました。
寺院においては、「小法師」や「毛坊主」と呼ばれる「半僧半俗」の童子らが住職の代わりを務めており、彼らも神殿と同じような生活を営んでいたと云われます。
そして宮座の構成員は皆、おしなべて総髪で結髪せず、長い髪を垂らし、履物も草履をはいた子供のような独特の姿をしており、その様相から「八瀬童子」と呼ばれるようになったそうです。

現在に甦る「八瀬童子」の姿
狭い谷間に暮らす彼らは農作業に従事することができず、山林事業のほか、比叡山諸寺の雑役に天台座主や天台宗門跡寺院門主の駕輿丁を務めて暮らしていました。
そして延元元年(1336年)初めて歴史の表舞台に姿を現わします。
足利尊氏に追われ京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬童子13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護しました。
彼らはこの功績により、後醍醐天皇から、地租課役の永代免除の綸旨を受けました。
それ以降も歴代の天皇から計23通の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し、天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことが主な仕事となりました。

大正天皇崩御を受け大喪儀の練習をする八瀬童子
最近では1989年の昭和天皇崩御に伴う大喪儀や翌年の1990年の今上天皇の大礼儀に奉仕したことで皆さんの記憶に新しい事でしょう。

昭和天皇大喪儀で駕輿丁として奉仕する童子たち
つまり彼ら「八瀬童子」は、独特の生活習慣や「宗教観」を保ちながら、天皇や天台座主、または門跡門主などの常に「その時代の尊く清い」もののそばで「鬼」として侍り、我が身を楯にすることによって清いものが「穢れる」のを防いできたわけです。
彼らは「鬼の子孫」として、また、身を以って尊い存在が穢れるのを防ぐという特別な役目から「穢れた存在」、いわゆる「キヨメ」と呼ばれる当時の身分制度上最下層の地位に置かれていました。
ちなみに大阪教育大学名誉教授で日本史学者の丹生谷哲一氏はこの八瀬童子の駕輿丁奉仕のことを「悪魔祓い」と表現しています。
そのことから八瀬地域もいわゆる「被差別地域」と認識されており、寺社等に奉仕しキヨメを役割とする「夙」と呼ばれる被差別村落として現在を迎えております。
この「被差別村落」に関するお話は、突き止めて考えていくとかなり複雑なうえ、様々な「言葉狩り」に遭いそうなのであえてこれ以上深く内容には触れませんが、こと「八瀬童子」に関しては、その尊い役目からか、近隣の人々が「賤しい」と差別的な意識を持つことはなかったと云われております。
また、巷ではこの奇奇怪怪な「鬼の子孫」のルーツを解明しようと、柳田国男や折口信夫を始めとした日本を代表するそうそうたる大学者の先生方が八瀬童子を研究の対象としてきました。
各大先生方のおおよその研究結果は先程来私が説明した概要にまとめているのですが、ことその成り立ちについては、先生方が誰一人として説明できていない部分があるのです。
それはつまり…
「八瀬童子は一体どうしてこの「八瀬」の地で発祥したのか」ということです。
大先生方は、「陰陽五行説」をもとに、京の鬼門の方角として発祥した説や、森鷗外が著した『山椒太夫』よろしく「散所(さんじょ)」つまり、「浮浪者が寺や神社の小間使いの職を得るために何処からともなく集まった」という説や、(安寿と厨子王の話で有名な山椒大夫はこの散所の頭領を表しているそうです)まで、諸説がいろいろと錯綜しており、現状これといった決め手の論述がありません。
残念なことに、これほどのパズルのピースを持ちながらも大学者の先生方は、誰一人としてそのピースをうまく繫ぎ合わせることができなかったのではないでしょうか?
つまり、これらのパズルのピースを私が今回提唱した「北方の結界」説に照らし合わせてつないでみると様々な問題が一気に解決できてしまうのです。
先ほどから私が申し上げている通り、この「八瀬」という地域は、朝廷などの権力者や延暦寺を始めとした宗教者たちにより意図的に創られた「北方の結界」として、京の内外を宗教的分ける主要地点だったと考えればどうでしょう。
そうやって考えることで、大先生が唱える「鬼門の方角」にも当てはまりますし、また、用水路の取水地に溜まる落ち葉のように境界線上を境に「悪しき気」が堰きとめられ、そこに浮浪者などが集まり「散所」となったことも十分理解できます。
何よりこの境界線上を中心に「悪しき気」の侵入を防ぐ「悪魔祓いの奉仕」を生業とする「キヨメ」の「夙」となったことへの一番納得のいく回答となるのではないでしょうか。
ようするに、「八瀬童子」は「北方の結界の管理者」として1千年にわたり身をやつして、朝廷や延暦寺に奉仕してきた訳なんです。
天満宮が奉祀された後「八瀬童子」たちは、「夙」のキヨメとして「北方の結界」を護り、静かに独自の信仰と生活のスタイルを連綿と営んできました。
それが後醍醐天皇の命をお救いした名誉がきっかけで、皇室とのご縁が深まり、表舞台において日の当たる存在となりえたのだと思います。
京都には古くから清められた場所が多いので、ほかにも「夙」がたくさん存在する訳ですから、八瀬のみがクローズアップされるのにはこういった理由があるからではないでしょうか
その後、「錦の御旗」とのご縁を以って後ろ盾を得たことで、元来の延暦寺に対する奉仕のお役目の心が薄れてしまい、中世には山領の境界争いも幾度か勃発したようです。
宝永7年、江戸幕府の時の老中秋元喬知の裁許により、八瀬村の利権が認められ、私領・寺領を上地して一村禁裏御料となり、年貢・諸役一切を免除するとの裁決が下された。
そのことがきっかけか、秋元喬知は自殺してしまいますが、その報恩のために村人は喬知を天満宮本殿の脇に秋元大明神として祀り、毎年、女装の青年の頭に八基の燈篭を灯し、赦免地踊(しゃめんちおどり)という一夜の優雅な祭りを繰り広げることになりました。

赦免地踊の様子
きっと、両者の間には長い歴史からくる複雑な事情が絡み合った経緯の結果なのだと思いますが…
しかしながら私の唱える「北方の結界論」からすると、その行為や祭りは本筋を外したものではないかと若干の危惧を感じてしまう気がするのです。
八瀬童子たちは、「鬼の子孫」の法力で、結界を護るのが本懐だと思うのです。
そうして、本来の仕事である結界を護ることによって「北方の結界」が健全に保たれ、結界周辺に住む私の身の回りも浄化されてゆき、ご近所の意地悪改善につながっていけると思うのです。
これだけ濃い話の結末を、私の小さな小さな私怨で締めくくってしまい、ほんとうに申し訳ありませんでした…m(__)m
赦免地踊の話からは冗談ですので、本気にしないでくださいね。
さて、八瀬地域と八瀬天満宮までは、京都市内から白川通を北上すると、大原に向かう国道367号線が花園橋から分かれるので、手前を右に進みます。
やがてトンネルを抜けると道は左にカーブし、七瀬橋で信号のある交差点に差し掛かります。ここまで花園橋から約4.3kmでここを右折します。
道なりに左にカーブして橋を渡り、再度左にカーブした先の右手に八瀬天満宮社の一ノ鳥居があります。
ここまで七瀬橋から約600mです。
一ノ鳥居から二ノ鳥居までは両側が田んぼの真っ直ぐな参道を進みます。
正面に石段があり、この左側が広いので駐車が可能です。

石段手前の右手に“弁慶背比べ石”があります。
石段を登った左手に社務所、正面に本殿があります。

石段から見上げた八瀬天満宮
本殿の背面扉の内側には、道真の本地仏である十一面観音絵像が祀られているそうです。
本殿の右隣りには摂社である秋元神社が、そしてこの周囲には若宮大明神など多数の摂社があります。
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